「できるようになりたいことはたくさんある!」                 ジョージ・ベスト

ジョージ・ベスト  

George Best

(1946年5月23日生まれ)

「彼こそがまさに天才ドリブラー。世界最高の選手だ!」。世界のサッカー界で“キング“と呼ばれるブラジルのペレが、かつてこう名指したのは、マンチェスター・ユナイテッドの伝説ともなっているジョージ・ベストでした。

北アイルランド・ベルファスト生まれ
「最も天賦の才能を与えられた選手」

 
英国の名門サーカークラブ「マンチェスター・ユナイテッド」の名選手紹介のページでは、「ジョージ・ベストが、英国が生み出した最も天賦の才を備えた選手だったということに、異論を挟む人はほとんどいないだろう」とコメントされています。

(ユーチューブの「動画」をお借りしています。ありがとうございます)





時にはウィングとして、時にはストライカーとしてプレーし、素晴らしいテクニックに抜群のバランス、広い視野に驚異的なジャンプ力、目も眩むようなスピードと高い技術を併せ持つドリブル。
「チャンスを作り出す能力」、そして「不可能な状況でも得点を挙げる能力」、
天才と呼ぶに最も相応しい、シーンをいくつもピッチの上で繰り広げたのです。

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独特のリズムでディフェンスを翻弄するベストのドリブル

そのプレースタイルは、クリスティアーノ・ロナウドと共通する点も多いのですが、違うのは、ジョージ・ベストは60年以上も前にサッカー界に出現したことです。
そして、ロナウドが、その圧倒的なパワーを魅力としている点に対し、ベストは、パワーというよりも「華麗なテクニック」「流れるようなスラローム」「ディフェンスを次々とかわしていくスピード」と言えるのかもしれません。

15歳でその才能を見い出だされ
名門・マンチェスター・ユナイテッドの復活を担う

ジョージ・ベストは1946年、北アイルランドのベルファストで生まれています。公団が運営するクレガグ団地で育ち、やせっぽちのティーンエージャーだったベストは、15歳の時に、マンチェスター・ユナイテッドのスカウトであったボブ・ビショップによって見追い出されます。

ビショップが、当時の監督であったマット・バスビーに送った電報には
「ボス、私は天才を見つけたようだ!」
と記されていました。

英国サッカー協会の規定により、「17歳の誕生日までは選手契約してはならない」ことになっており、べストは2年の時間を待たなければならず、1963年5月、彼の17歳の誕生日にプロ契約を結びました。
9月にデビューを果たした後、2試合目の対バーンリー戦で、ベストは切れ味鋭いドリブルから初得点を挙げ、その後は、レギュラーの位置を獲得。
その後、すぐに北アイルランド代表でも初キャップを記録しました。

ベストが入団する5年前に、「ミュンヘンの悲劇」と呼ばれた航空機事故で、主力選手の8人を亡くしたマンチェスター・ユナイテッドは、ボビー・チャールトンを中心に、ようやく、立ち上がりかけていた時代です。
ボビー・チャールトン、デニス・ローといった、個性と技量を備えた選手を核に、そこへ、キレキレのドリブラー、ジョージ・ベストが加わったのです。

ベストが入団して2年目、1964-65シーズンはベストと、新加入のノビ―・スタイルズとの呼吸もぴったり合い、マンチェスター・ユナイテッドは8シーズンぶりにリーグ優勝を果たしました。

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マンチェスター・ユナイテッドの栄光を築いた
ノビ―・スタイルズ(左)、ジョージ・ベスト(中)ボビー・チャールトン(右)

翌年は、ベストはリーグ戦すべてに出場し、リーグ連覇に貢献。そして、その翌年、マンチェスター・ユナイテッドは、ヨーロッパ・カップ(現在の、UEFAチャンピオンズリーグ)で、次々と強豪チームを撃破。

準決勝では、レアル・マドリード戦で、ベストは1ゴール、1アシストと活躍し撃破。ついに、決勝戦で、当時、最強と目されていたポルトガルのベンフィカと対戦することになったのです。

エウゼビオ率いるベンフィカを撃破
22歳で「バロンドール」の選出される

当時のベンフィカには、「黒ヒョウ」と呼ばれるストライカー、エウゼビオが君臨していました。

1968年5月29日、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで、ヨーロッパ・カップ(現在の、UEFAチャンピオンズリーグ)の決勝戦が行われました。ベンフィカ優勢の中、試合は1対1で延長戦へ。
試合を動かしたのは、ベストの果敢なドリブルでした。延長前半の3分。ベストは自らフェイントを交えたドリブルで、ベンフィカ・ゴールへ迫り、最後は、ゴールキーパーをもかわし、無人のゴールへ、ボールを流し込んだのです。

このベストのゴールで、ベンフィカは急速に勢いを失い、結果は4対1で
マンチェスター・ユナイテッドが勝利したのです。

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ヨーロッパ・カップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)を制す

ベストは、この1968年にリーグ戦では28ゴールを挙げて得点王に輝き欧州年間最優秀選手(バロンドール)に選ばれています。
ジョージ・ベスト、22歳の絶頂期でした。

「5人目のビートルズ」、アイドル的な人気
その背後から忍び寄るカゲ

ジョージ・ベストの人気は、これまでのサッカー選手とはすこし違ったものでした。
その風貌、スタイルから「5人目のビートルズ(エル・ビートル)」と呼ばれ、少年ファン、女性ファンに常に囲まれ、サッカーだけでなく、その行動、スタイルもいつも注目されたのです。クラブには、一週間に1万通ものファンレターが届きます。

「できるようになりたいことはたくさんある。ベルファストの団地の草サッカーから出てきた私は、10年以内に世界最高の選手と称えられるようになりたい。私自身がやらなければならない」
とベストは語っています。

しかし、現実は暗転していきます。
ベストはその人気の高さゆえか、独りよがりの行動・プレーが目立ちはじめ、その品行はだんだんだんと荒れたものになり、飲酒の量も増え、プレーの切れ味は落ちていきます。審判への暴言も増え、懲罰で出場停止処分を受けたりしたこともありました。周囲からの忠告にも、耳を貸そうとしませんでした。

信頼していた監督マット・バスビーが退くと、ベストの精神状態はますます混沌としたものになって行きました。

その後、ボビー・チャールトンの引退、デニス・ローの移籍など、ベストとともに、「栄光のマンチェスター・ユナイテッドの時代を築いた仲間」が去っていくと、べストにも決断の時が来ていました。
1973年に、ベストはマンチェスター・ユナイテッドを去り、その後、いくつかのチームを渡り歩きました。

しかし、栄光はよみがえりません。それと同時に、アルコールがべストのカラダをむしばんでいき、引き返すことのできない状態になって行ったのです。

BBCが生放送で伝えたその葬儀
現在でも、「絶大な人気」は消えず

2005年12月3日。ジョージ・ベストの葬儀が、故郷の北アイルランド・ベルファストで行われました。
悪天候で、風は強く、冷たい雨の降る日でした。それにもかかわらず、ベストの棺を乗せた霊柩車が走っていく沿道には、人が何重にも重なり、途切れることはありませんでした。

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葬儀の日のベルファストは悲しみに包まれた

葬儀に参列した300人の関係者、一時間以上にわたって、BBC放送(英国テレビ局)は生中継を続け、英国全体では450万人、全世界では2300人の人がベストを見送ったといわれています。

「私たちは皆、ジョージ・ベストの世界に生きている」
「いかに天才であるとはいえ、自分にも欠点があるのだということはベストにはわかっていました」

葬儀の司会を務めた、人気キャスターのエイノン・ホームズはこう語ったのです。

天才ドリブラーとして輝いた時間は、決して長くありませんでしたが、ジョージ・ベストは人々の記憶の中に大きなモノを遺していきました。
現在でも、英国の本屋さんには「ジョージ・ベスト・コーナー」が常設されているそうです。