かりかりアーカイブス(2) 史上最大の粉飾事件「不二サッシの経営破綻」の背景を探る!

『週刊ダイヤモンド 1978年4月8日号掲載』
<企業ワイドレポート>
不二サッシ 転落の軌跡
ー業界のパイオニアが銀行管理に陥った本当の理由—

いまや、日本の住宅には欠かせない建築部材となった「アルミサッシの窓枠」。
昭和30年代、不二サッシ工業の創業者である佐野友二社長(当時)は米国で開発された「アルミサッシ」を日本の市場に持ち込んだ功労者でした。
“白い戦争”とも呼ばれるほど激しいシェア争いを一歩リードしてきた不二サッシだったのですが、その社内には外からは窺いしれない闇と病根が広がっていたのです。

記者は、この不二サッシの経営破綻の経緯・背景を探るべく、取材を行ったのですが、当然のごとく当事者たちは取材を拒否し、その概要をつかむことさえ難航を極めました。入念に資料を集め、調査していくうち、メーンバンク2行(当時の埼玉銀行・大和銀行)との不可思議な関係が浮かび上がってきました。銀行当事者でさえ当惑し「全貌が理解できない」というその“因縁”とは・・・・。

なお、本記事は、1970年代当時の「不二サッシの経営破綻」を追ったもので、その内容には現在の不二サッシ株式会社の企業及び関係者との関連はまったくないことを上げておきます。

『週刊ダイヤモンド 1978年4月8日号掲載』<企業ワイドレポート>
不二サッシ 転落の軌跡
ー業界のパイオニアが銀行管理に陥った本当の理由ー

「サッシとは窓ワクのことです」――こんなテレビ・コマーシャルを流して日本のアルミサッシ業界のバイオニアの役目を果たしてきた不ニサッシが完全な銀行管理会社に転洛した。それは同時に絶対ともいわれた佐野ワンマン体制の崩壊でもあった。
しかし、その30年の歴史 の裏面にはよリ泥臭い何かが・・・・。

32年目の崩壊

「もしやもしやに引かされて、4年間来てしまった。もっと早く人員削減などやっておくぺきだった」――。
昭和53年(1978年)2月10日、東京証券取引所における記者会見の席上、不ニサッシ•佐野友二社長は自らそのカジ取りの失敗を認めた。そうして昭和21年12月から数えて32年間、あまりに長かった社長の座を降りていった。

「無配を3年も続けてしまい、株主への責任は重大だと思っている」
こうひと言、退陣の弁を述べた後は、両側の2人に質疑応答を任せた。
大塚正信・不ニサッシ工業専務、山名酒喜男・不ニサッシ販売副社長。ともに銀行側派遣の役員である。
かつて、あれほど“ワンマン”言われ、饒舌だったた男が、その真ん中で、ただ静かに 座っている。
わずかに「オーダーサッシでは、まだ半分のシェアかある」 といったその言葉だけが、自分が創り、育ててきた事業への執着を垣間見せたに過ぎなかった。

この日、代表権のない会長に退くこととなった佐野友二社長(中)は終始、淡々といていた。右側は大塚正信氏(大和銀行出身)、左側は山名酒喜男(埼玉銀行出身)。2月10日の東証での記者会見。(写真:朝日新聞提供)

その時刻、東証の株式市場では、すでに 不ニサッシ工業・販売株の午後の売買取引は停止されていた。
「ワンマン体制が根強く残っておリ、(佐野社長は)見通しに甘さを持っていた」(埼玉銀行・長島恭助頭取)、「古い体質を打破していこうとしても、いまの経営陣では”できない”と判断した」(大和銀行・安倍川澄夫副頭取)。銀行側は全面テコ入れの理由をこう説明した。
“ワンマン経営の破たん”、“温情主義がアダ”・・・・、こうタイトルを付けられて、その日のうちに不ニサッシの転落は伝えられていった。

再建案は発表された。3月22日のことである。
新社長には埼玉銀行から堀込聡夫。新経営陣には不ニサッシ生え抜きの役員30人の中から、17人の名前か削られ、特に管理・経理面の担当は、すべて埼玉、大和の銀行派遣軍で占められた。
年間26億円に達する金利減免、750 億円を対象とする元本返済猶予の措置が埼玉、大和両行の手によってとられる。また、銀行側は大阪工場、東亜国内航空株などの有価証券(時価約60 億円)の資産買上げにも協力する姿勢を打ち出した。

不ニサッシのために、埼玉銀行は“次のエース”といわれた筆頭専務 を送り出し、4月からは行内に特別 プロジェクトチームを発足させる。大和銀行は不ニサッシ工業が持つ 札幌市郊外の分譲開発用地83万平方メートルの処分に協力するという。支援の手は厚く差し伸ぺられた。

「私どもは何としても不ニサッシを再建いたします」
――臨時株主総会 を終えたその日、堀込聡夫・新社長はこう 語っていた。
同じころ、佐野友二会長は個人資産の売却によって、40億円の赤字補てんを申し出ている。
見た目には、それらは、一方で‘“強力な支援” が動き出し、また一方で「私財がなげうたれた」と映る。
とにかく、不ニサッシは再建への道を歩き出したのだが・・・・。

数字が合わない

その前年の12月時点で不二サッシ工業・販売の借入金は1200億円、うち埼玉銀行が396億円、大和銀行が347億円を貸し出している。ただ、「実際には債務保証を含めて埼玉600億円、大和さんが500億円程度入れている」(埼玉銀行)という。
実に不二サッシの負債総額1500億円の8割近い1100億円を埼玉、大和両銀行が面倒見ていたことになる。

増え続ける借入金。不二サッシ工業・販売の借入金の推移。

特に不二サッシは借入金が年間売上高を上回り、支払い純金利額も営業利益を上回るといった水準に達しており、単なる製造会社としては異常なかたちを示していた。
「1年位前から人を送り込まなければ・・・・、と、その必要性は感じていた」と、大和銀行・安倍川副頭取は言う。
それが、埼玉銀行との調整がなかなかつかず、実現したのは昭和52年(1977年)3月期決算が出た後の6月であった。
大和銀行から監査役の大塚正信が不二サッシ工業の専務に、埼玉銀行からは東洋ハウジング社長の山名酒喜夫が不二サッシ販売・副社長として送り込まれている。

しかし、その5カ月後、この両銀行は新たに3人の人材を送り込まなければならない事態に陥っていた。
「帰ってきて説明を聞くんです。でも、どうしてもツジツマが合わないのです」・・・・。
徹底調査のために、人手が必要になった、というわけである。
埼玉からは調査部長の浅見道雄、主任調査役の田淵洋治が、大和からは銀座支店長の藤本毅が・・・・。洗い直し作業が昼夜を分かたず進められていった。

不二サッシ工業・販売の売上高・利益の推移。

しかし、この間にも不二サッシの窮状は2度にわたる緊急融資を必要とするほどに切迫していく。
一方では、毎日毎日、数十ページにも及ぶ資料が数ヵ月にもわたって積み上げられていった。

「いま、大体の洗い直しが終わって、やっと不二サッシの全貌が見え始めてきた」(大和銀行)。
銀行にしてこれである。それは不二サッシという企業の持つ不透明部分の奥深さを感じさせる。

奇妙なパイプ

不二サッシという企業は、その創業・始動期に6回の合併・買収を行っている。昭和25年「日建鋼業」、昭和28年「東洋造機」、昭和36年「東栄紡織」・・・・。
ワンマン・佐野友二はこれらをのみ込み、そのたびに業容を大きくしていった。

だが、それにもまして、激しく事象を創っていくのは、この不二サッシに絡んでくる“衛星企業群”である。
不二サッシの関係会社明細表を細かく見ていくと、25年間に実に43社もの企業の名が挙がってくる。それらは、あるものは突然現れ、あるものはその持株をゼロにして突然消えていく。

現在(昭和53年)、不二サッシも関係会社と呼ばれるものは12社。九州不二サッシ、不二倉庫、不二商事、日本航業、旭製作所、大塚製作所、日海工業、不二流通センター等々。
本業に関係深い業務を行っている会社もあるが、中には、航空測量、ボイラーメーカー、ホテル観光事業といった事業を営む会社もあり、いわば「小型コンツェルン」を形成している、と言ってもいい。

だが、その実態の大部分はベールの中にある。
ただ、12社全体で、累積赤字額は30億円、負債総額は400億円に達している。それらが、不二サッシ本体の転落の一つの要因になったことは確かだ。

その中で、「不二工機」(資本金4億円、社長・工藤侃氏)は不二サッシの代表的な赤字関連会社だった。ボイラーや公害防止機器のメーカーだったが、年商25億円に対し、累積赤字は17億円にのぼっていた。それが、「黒字化へのメドが立たない」ということから、昭和52年11月に解散・整理の手続きがとられている。
ただ、この不二工機は、さかのぼっていくと前身は「不二ボイラー」という社名であり、その中身の多くは、「三協鋳造・狭山工場」の業務を引き受けたものである。そして、この三協鋳造こそ、元はといえば埼玉銀行の不良貸付会社だったのである。

似たような例が、もうひとつある。「福徳長酒造」である。
サッシづくりとは何ら関係のない酒造会社だが、接点がひとつ。
この会社がもとは大和銀行の不良貸付先だったという点である。その会社が、不二サッシ工業の関連会社として昭和40年3月に突然、姿を現わし(関係会社明細表に登場)、47年9月に大阪酒造に譲渡というかたちで消えていく。
疑わしき名はまだほかにもある。
「東海気罐」「不二技研」「日本航業」「奄美パイン」「石居工業所」「日本カルウォール」「トンボ乳業」・・・・。

なぜ、メーンバンクの不良貸付先企業が、不二サッシの関係会社に名を連ね、そして消えていったのか。そこに埼玉、大和両銀行と不ニサッシをつなぐ尋常でない何かを感じさせる。

「クリ―ニング屋のオヤジ」

佐野友二は明治43年(1910年)2月、静岡県富士市水戸島に‘’農家の次男”として生まれている。小学校を卒業して以後、職業を転々、野村生命(その後、東京生命に改称)で保険の外交セールスマンとして全国トップの座についたのが最初の成功である。
昭和21年(1946年)、「土建資材”(不ニサッシ販売の前身)」を設立、24年には「不二製作所」の社長の座について、自ら栄光の時代をつくりあげていく。

昭和32年(1957年)、アメリカ視察旅行から帰った佐野社長は、米国フェントロン社と技術提携を締結、日本で最初のアルミサッシ製造を手がけていく。
そして.昭和30年代後半から40年代前半にかけて、不ニサッシはその先発の利を生かし、アルミサッシ業界ではシェア60%以上を握って独走する。

集合住宅などには欠かせない建築部材となったアルミサッシ。米国から日本市場に持ち込んだのは佐野友二社長だった。

佐野友二は、その日の出の勢いの中で埼玉、大和の両銀行との関係を形づくっていくのである。
国際興業・小佐野賢二、大映・氷田雅一、高荻炭礦・菊池寛実らと並んで、埼玉銀行では平沼弥太郎頭取を囲む『埼栄会・七人の侍』のひとりに数えられていた。
しかも、不ニサッシの高成長を背景に、その顔ぷれの中で副将格をつとめ、実際、佐野友二は平沼頭取の知遇によくこたえたという。ぞれは、ある意味では、「不良貸付先の整理を引き受けたこと」ともいわれている。
同じころ、佐野友二は、同じようにして大和銀行頭取・寺尾威夫とも親交を深めている。
それはあたかもアクの強い人間同士のみが引き合うかのように・・・・。

左は平沼弥太郎・埼玉銀行元頭取。右は寺尾威夫・大和銀行元頭取。両人とも銀行にとっては発展の大功労者であり、経済人としても多大な功績を挙げていた人物であった。

佐野友二はかつてこう言って笑っていたことがある。
「私はいわゆる事業家ではなくて、クリーニング屋のオヤジみたいなもの」と。

昭和47年(1972年)10月、不ニサッシは大和銀行を介して、札幌市郊外大谷地区に分譲用地を購入している。
大和銀行はこの話を“もうけ話”として不ニサッシに持ち込んでいる。80 万平方メートル及ぷ大規模宅地開発。 時期的には“ある見返り” という意味にとれなくもない。

しかし、実際にはこの土地は不二サッシにとって大きな負担となった。札幌市側の地下鉄建設計画の遅れ、 開発抑制がきいて、簿価53億円の土地が金利の原価参入などで5年後には薄価107億円にまで膨らんでしまっている。
もちろん大和はその責任上、経費の一切(現在まで51億円)を貸し出している。 とはいうものの、すでに含み益の大部分をハキ出した状態にある。

1977年暮れ、 やっとのことで開発許可が下りた。
ただ札幌市側の「開発主体が不ニサッシということではまずい」との要請から、新たに“東部ニュ ー タウン”という開発会社が設立され、大和銀行はそこへ役員を送り込み、資金援助を行なうという。

復活への焦り

確かに、佐野友二社長の経営は失敗に終わった。
特に昭和46年(1971年)、 独特の直販方式で伸びてきた吉田工業(YKK)に業界シェアを奪われ、続いてトーヨーサッシにも抜かれてからは、その“栄光復活への焦り”が不ニサッシを行き詰まりの方向へと導いていく。

落ちていく業界での地位。サッシ業界でのシェア推移。

関西地区への住宅サッシ供給拠点を目的としてつくられた「関西不二サッシ」は、新大阪工場建註計画がとん挫したことから有名無実となってしまい、 再び本体への吸収を余儀なくされ、200億円を投下した「九州不ニサッシ」の住宅サッシ新鋭工場も、石油ショックを迎えて大きな負担となってしまった。

一方、販売面では、従来から進めてきたセンター店方式から、一挙に吉田工業流の直販店(SP店)づくりに傾斜して失敗。 1店舗6000万円の費用がかかるSP店を1年間で30店増加させた強気の策が、その傷口をひろげることになったのである。

そして52年には、 吉田工業、 トーヨーサッシなどの一部製品が、通産省から「欠陥」と指摘されたのに便乗し、「いまこそ.シェア奪回のチャンス」という佐野社長自らの号令も、 結局は、増産が過大の在庫増を招いただけに終わってしまったのである。

売りに出された“佐野御殿”

この53年3月期、 不ニサッッシはエ業・販売合わせて371億円もの赤字を計上する。 その多くは棚卸資産、貸付金、 固定資産の評価損・除却損と退職金支払いによる特別損失だ。
しかも、大蔵省も「独自に以前の決算内容を調査する」と、 粉飾への疑惑は消えたわけではない。その疑いの目は、監査を務めた二人の公認会計士にまで及ぶという“異例の経済事件”の様相を呈し始めている。

堀込新社長は「積年の悪弊を一掃し、すっきりした基盤に立って」という。
しかし、“白い戦争“といわれた だでさえ競争の激しいサッシ業界の中で、不ニサッシの衰退に歯止めをかけることはこれで一層むずかしくなった。
「工業と販売の合併も考える」(大和銀行)という。
「業界で残るのは3社」といわれる中にあって、どういう形で、 どういう方法で不ニサッシを生き残らせていくのか、埼玉、大和の両行は大いに頭を悩ませなければならない。

故・池田勇人をして
「庭に30億円、 家に30億円はかかったろう」
といわせた佐野友二氏の豪邸、通称“佐野御殿”(それは、不ニサッシ絶頂期の象徴でもあるが…)も、 今回一部売却されることになったという。
それらは、 不ニサッシという企業を舞台として、 この30年間くりひろげてきたものへの、 回ってきたツケなのかもしれない。

●取材時を掘り起こす

取材時、いちばん印象的だったのは、当時のメーンバンクである埼玉銀行、大和銀行でさえ、この破綻劇の裏側にどのような事実と関係が存在していたのか、知り得ていなかったことです。そのため、粉飾決算の全容を解明するまでには、相当な時間がかかってしまったのです。銀行関係者への取材には、先輩記者の岩佐豊記者が協力してくれました。

昭和53年(1978年)、東京地裁で、佐野友二・元不二サッシ社長には懲役3年、執行猶予3年の判決が下されました。主文では「過去30年間、専ら銀行のために働いてきたようなもの、との被告の述懐も事の真相の一端を吐露したものとして、一概に排斥し得ないものがある」と発表され、銀行は不二サッシ・佐野社長に「多数の不良貸付先」の再建(整理)を依頼し、債務を移し替えた、とも記載されました。

また、この事件では、監査を担当した「公認会計士二名」も証券取引法違反ほう助で起訴され、罰金刑を受けました。行政処分としては最 も重い処分である“登録抹消処分も受け、企業会計監査のあり方に大きな波紋を投げかけました。「経営者からの強い懇願を受け、断り切れずに粉飾決算を長期間、看過・協力する事態に陥ったしまった」と会計士は述べています。

●不二サッシ株式会社の新たなスタート

不二サッシの粉飾は15年以上もの長期間にわたっていたことが判明し、上場廃止となりましたが、その後、大和銀行、埼玉銀行も経営支援を続け、経営陣刷新、再建の道を歩みました。
そして、昭和56年(1981年)11月、不二サツシ工業㈱、不二サツシ販売㈱、不二サッシ㈱(旧社名東洋ハウジング㈱)の3社合併により、「不二サッシ株式会社」として新発足が実現しました。そして、82年8月には「東証二部」への復活上場が実現し、現在に至っています。