「新撰組」結成から150年目。最年少12歳の隊士・田村銀之助が示したその心意気!

ビッグネーム、剣の達人、イケメン5人衆など個性派ぞろいが人気の要因に・・・

shinsenngumi1

 

今年は、『新撰組』結成からちょうど150年目に当たります。

 

新撰組は、江戸・幕末から明治維新に至る時代に、京都の治安維持と反幕府勢力取り締まりのために文久3年(1863年)結成された“非正規組織”でありながら、一時は隊員200名以上を擁し、「池田屋事件」をはじめ、新撰組による倒幕派襲撃や鎮圧行動は、歴史的にも重要な役回りを演じたと言えるでしょう。

 

新撰組を舞台として、多くのドラマや小説・映画が描かれ、ゲームや「新撰組検定」までありますが、それは新撰組に個性あふれるメンバーが揃っていたことが大きな要因といえるかも知れません。

 

局長・近藤勇(こんどう・いさみ)をはじめ、冷静な判断で「鬼の副長」と呼ばれた土方歳三(ひじかた・としぞう)、そして、天性の剣の使い手でありながら、肺病に倒れ、20歳代半ばにして逝った一番隊隊長・沖田総司(おきた・そうじ)が新撰組のビッグネーム3人でしょう。

その他にも、初代筆頭局長(壬生浪士時代)も務め、幹部クラスでありながら、その乱暴狼藉ぶりや思想的な違いから同じ新撰組仲間に暗殺された悪役・芹沢鴨(せりざわ・かも)、隊の中でも最強と言われ、秘剣「龍飛剣」を持ち、豪快な剣豪・永倉新八(ながくら・しんぱち)、無口で左利きの剣の達人・斎藤一(さいとう・はじめ)、学才豊かで「探索方」として活躍した山崎烝(やまざき・すすむ)・・・など。

 

現在でも、隊士の人気投票をやると大きく票が割れてしまいます。それぞれに持ち味と魅力を持っていたようです。

 

新撰組のイケメン・ナンバーワンは? 「新撰組 美男五人衆」の顔ぶれ

 

京都・壬生(みぶ)村で、新撰組の屯所となった八木家の三男であった八木為三郎氏が、後に作家・子母沢寛の取材を受けて、話した中に「美男五人衆」の話が出てくるといわれています。その5人とは・・・、

 

・馬越三郎(まごし・さぶろう)・・・少女マンガの中から出てきたような美男子。

・山野八十八(やまの・やそはち)・・・一番隊所属。愛嬌ある笑顔で人気者。

・佐々木愛次郎(ささき・あいじろう)・・・色白の美少年。悲恋物語が有名。

・馬詰柳太郎(まづめ・りゅうたろう)・・・気弱な美少年。脱走の罪を問われ切腹。

・楠小十郎(くすのき・こじゅうろう)・・・目はパッチリ、声は優しく。

 

最年少12才の新撰組隊士。田村銀之助(たむら・ぎんのすけ)の言葉

 

新撰組が結成されてから5年目、倒幕派と旧幕府軍派との勢いの差がはっきりと分かれ、時代が江戸から明治維新へ移りゆく日々の中、慶応3年(1867年)に田村銀之助が新撰組に加わります。その年令はわずかに12歳。現代で言えば。小学校を出たての年代です。

 

福島県の磐城平藩の武士の家に生まれた田村銀之助は、兄の一郎・録四郎とともに、新撰組に入ってきています。

新撰組にはとくに入隊資格や入隊試験などもありません。ただし、銀之助はあまりにも若年だったため、隊士とは言っても、戦闘要員ではなく、局長や副長の身の回りの世話をする役割を、当初は担っていたようです。

 

tamura2

 

 

それでも、旧幕府軍の中に混じった新撰組は翌年、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗戦、甲府勝沼の戦いでも敗戦と「敗走」が続き、すでに、局長・近藤勇は投降後、処刑されて世にはいません。沖田総司も病に倒れ、命を落としていました。新撰組の離散・戦力低下のなか、銀之助も会津から仙台へ、そして、副長・土方歳三に従い、箱館(函館)への逃避行を余儀なくされています。

 

箱館に入り、川汲峠(かっくみとうげ)の戦いで、銀之助は鉄砲を一発、放っています。銀之助も加わっていた旧幕府軍が五稜郭に入り、当初は旧幕府軍有利な戦いが進み、少年兵たちは「修学の目的」で、フランス人プリュネや日本人通訳・山内六三郎から「フランス語」習得の勉学もしています。 

しかし。6ヶ月ほどの箱館五稜郭の戦いで、新政府軍が戦力を次々と投入し、戦況が悪化。籠城を余儀なくされる中で、全軍を率いていた榎本武揚から、隊に「年少の者たちを逃がすよう」命令が下されます。

この命令を伝え聞いた銀之助は、

「我らの少年なるをもって侮り辱かしむるや、今日に至り何ぞ志を屈っせんや」

と言い放っています。「年少だからといって侮辱するな! 志しあれば戦えないわけではない!」と怒りをぶつけたのです。

 

戦いの末期に、新政府軍から“降伏勧告”の酒樽が届き、いよいよ五稜郭内で「決別の宴」が催され、銀之助には先輩隊士・大鳥圭介が「帰順(投降)し、命をまっとうすること」を諭しますが、

「十五で命が惜しければ五十でも惜しい。五十で惜しければ七十、八十でも惜しい。死する覚悟はできている」

と伝え、他の隊士と一緒に籠城し、死に花を咲かせるつもりであると固辞しています。

 

数日後、五稜郭は開城され、榎本武揚以下、旧幕府軍は全面降伏し、銀之助も命を散らすことなく、生き続けることになったのです。

 

写真は、数え年15歳のころ、函館か東京の写真館で撮影されたたもので、孫の田村道子さんが、北海道函館市の「土方歳三函館記念館」に寄贈したものです。

 

田村銀之助は、箱館以後、明治政府に仕え、陸軍士官として西南戦争に参加したり、北海道開拓などの仕事もしています。

また。大正時代には、新撰組の歴史を綴るための「史談会」に参加し、『史談会速記録』の中で「函館の戊辰戦争末期に、隊士・伊庭八郎(いば・はちろう)が、榎本に差し出された毒(モルヒネ)入りの酒を、毒と知りつつニッコリ笑って、豪快に飲みほし、壮絶な最期を遂げた」ことなどを語っています。

 

田村銀之助は、大正13年(1856年)8月20日に、69歳で亡くなっていますが、その遺骨は現在、東京・文京区にある智香寺の「田村家之墓」の中に納められています。

 

新撰組検定ホームページ