「埋蔵金伝説」というロマン(2)

心ひかれる『埋蔵金伝説BEST5(東日本編)』

『日本の三大埋蔵金伝説』とも言われている「徳川幕府埋蔵金」、「豊臣秀吉の黄金」、「結城家17代晴朝の黄金」のほかにも、日本には全国各地にいくつもの埋蔵金伝説が存在します。

では、この埋蔵金伝説はなぜ生まれてきたのでしょうか?
その背景を見ていくと、そこにはさまざまな史実、時代の動きがうかんできます。武家と商人の確執、嵐・地震の自然災害、戦乱の世に謎を呼ぶ意図・・・・・・。

今回は、東日本の「埋蔵金伝説」の中から、勝手に選ばせてもらった、心ひかれる『埋蔵金伝説BEST5(東日本編)』です。

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第1位 「富と名声を持つ豪商への、武家の嫉妬」

■前野小平治の埋蔵金 (愛知県)

現在の愛知県に当たる、知多半島南部の尾州・内海(うつみ)付近の海域は、天然の入り江を利用した良港に恵まれ漁業が発達し、江戸時代後期には、東西海上交通の要衝の地として海運業も盛んとなっていました。「弁財船」と呼ばれる、省力化の効いた帆走船を有した有力廻船問屋が多く育ってきましたが、前野小平治の前野家もそのひとつで、尾州廻船で隆盛を極めていました。

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1833年の「天保の大飢饉」により、江戸が大食糧不足に陥った際に、前野小平治は尾州から江戸へ食料を運びこみ、江戸を救った「救世主」としての名声を得ることになります。

しかし、これを「面白くない」と感じていたのは、前野家から数十万両という膨大な借金をしていた尾張藩です。尾州「内海の地を管理していながら、藩の台所は火の車で、圧倒的な財力に加えて、名声までも上を行く商人(前野家)に、「武士のメンツ」が大きく傷つけられていたのです。

そこで、尾張藩は「前野を取り潰してしまえ!」と画策を始めます。
尾張藩の動きを察知した前野小平治は、大判・小判をはじめ、主要な財産を埋蔵金として隠し、没収を避ける手立てを講じたのです。
その場所は前野家の屋敷内か、裏の高宮神社境内か。はたまた、前野小平治が庇護していた「尾風山 泉蔵院(ダルマ寺)」か・・・・・・。

第2位 「厳冬のアルプス越えの山中に埋めた7つの壺」

■佐々成政の埋蔵金(富山県)

安土桃山時代の天文5年(1536年)に尾張に生まれた佐々成政(さっさ・なりまさ)は、織田信長に仕え、25歳のときに比良城主となっています。上杉勢との戦いで功をあげ、越中の支配力を強め、富山城主となりますが、織田信長の死後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立、その後の羽柴秀吉と徳川家康との対立の渦の中にのみ込まれていきます。

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天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが始り、佐々成政は苦戦を強いられます。家康に「織田家再興を図るべし」との挙兵を要請するため、敵勢の踏みこまない「雪の北アルプス越え」を強行します。世に言う「さらさら越え」です。
家臣18人とともに厳冬期の立山山系・飛騨山脈(北アルプス)を越えて浜松へ、という難ルート。成政軍は熊の毛皮で身を包み、苦難のすえ、踏破に成功します。現代においてさえ容易に人を寄せ付けない厳冬の北アルプス、この時代のことを考えれば日本山岳史上に残る壮挙とも言えるでしょう。

この踏破行の途上で、佐々成政は途中長く苦しい旅の妨げになるものを雪の中に埋めさせ、その中におびただしい軍用金も含まれているのです。深い雪におおわれた峠の途中で石室を造り、佐々家伝来の鍬形の兜とともに、黄金百万両を詰めた49の壷を、立山の山中7ヵ所に分散して埋めた、と伝えられているのです。

「朝日さす夕日輝く鍬崎(くわさき)に 七つむすび七むすび、黄金いっぱい光輝く」
この歌は、富山県に伝わる鍬崎山についての里歌です。
成政の支配した越中新川郡には松倉金山・亀谷銀山はじめ「越中七金山(ななかねやま)」とも呼ばれ、これが成政の資金源だったのだろうと言われています。

日本の多くの埋蔵金伝説の中で、この佐々成政の埋蔵金伝説は「信憑性が高い」と言われているのですが、その場所については、針の木峠付近、鍬崎山、現在の内蔵助平あたり、諸説あります。
富山県大山町では毎年、この埋蔵金伝説にちなんだお祭りを開催しています。

第3位 「大地震による山津波で一瞬にして消えた金銀銅」

■帰雲城の埋蔵金(岐阜県)

現在の岐阜県・白川村に、かつて帰雲城(かえりくもじょう)という城が築かれていたそうです。帰雲城は当地の有力武将:内ヶ島氏の居城であった。寛正年間に内ヶ島為氏(うちがしま・ためうじ)により築城されたものです。

白川郷は豪雪地帯で、冬には陸の孤島となってしまうような地で、農業を営むにもとても肥沃な地とは言えず、何の産業もなさそうな場所でした。
しかし、内ヶ島氏は、ここで複数の城を持ち、多くの家臣を抱えていたのです。この資金は、どこから来たのかという謎が生まれるのです。

内ヶ島氏の経済を支えていたのは、白川郷で、川からとれる砂金、山から採れる金と銀であったと推測されているのです。川と山から採掘された金銀により内ヶ島氏が富裕な士族として栄えてきたのです。

しかし内ケ島一族と帰雲山の歴史は、バタンと閉じてしまうことになります。天正13年(1585年)11月29日、天正大地震が発生。
未曾有の規模で起こったこの自然大災害で、山の崩落した土砂により、白川郷保木脇にあった帰雲城とその城下町、そこに住んだ人々、そして内ヶ島一族はすべて埋没してしまい、内ヶ島氏は歴史から姿をかき消したのです。

そして残ったのが、この「帰雲城の黄金伝説」というわけです。

当時の帰雲城には、現在の価値にして5000億円とも1兆円ともされる金・銀・銅が保管されていたという説がありますが、内ケ島一族がなぜ、この白川の地に入村したのか、足利幕府の鉱山奉行だったという説もあり、謎に包まれています。

第4位 「謎多き金山奉行が残したメモ」

■穴山梅雪の埋蔵金(山梨県)

戦国時代、武田信玄率いる甲斐の武田家は、「黒川金山」を持ち、豊富な資金力で栄えた金鉱山の発掘に力を入れ、身延山ろくにその軍資金を秘蔵していたと伝えられています。
その担当者が、武田信玄の姉の子である穴山梅雪(あなやま・ばいせつ)です。
侍大将として、川中島の戦いでは信玄軍本陣の守り役を受け持ち、今川領への侵攻では、徳川軍の攻撃をハネ返したりしています。

ただ、この穴山梅雪はなかなか「謎多き人物」で、信玄の死後は従兄弟で義弟の武田勝頼と対立が絶えず、長篠の戦いの際に、戦線を離脱し、武田家を裏切ったことになっています。この動きは、真に武田家を見限ったものなのか、武田家存続への深謀だったのか、はたまた何かの密命を帯びたものだったのか・・・・・・。

その後は、織田信長の側についたかたちをとっている穴山梅雪ですが、本能寺の変が起こった際に、急ぎ甲斐に戻る際、山中で落ち武者の一群に襲われ、命を絶たれます。
そして、そのときに梅雪の懐に大事に忍ばせてあった「武功録」というメモに、埋蔵金の記録があると言われているのです。

「隠し湯の湧きて流る窟穴を、のぼりて指せや地蔵小坂、隠し湯の湧きて流る窟穴を、 のぼりて指せや地蔵小坂、 朝日夕日月に照る、 岩打て岩打て地蔵もうて、 竹に千歳の色添えし、 梅が雪見の酒なりし、千代八千代に栄えます」というメモ書きが残されていた、と言うのです。

「信玄は生前、側近の梅雪に命じて、大量の甲州金を山中に隠した」
という説があります。富士山麓か、身延山中か、樹海、本栖湖畔、下部温泉か・・・、その場所はまだ特定できていないようです。

第5位 「海底に沈んだ小判と財宝」

■南部藩埋蔵金(青森県)

民謡の南部牛追い唄は『田舎なれども、南部の国は、西も東も金の山』という一節から始まります。南部藩が領地としていた岩手・青森・秋田の地は、多くの金鉱山、銅鉱山、鉄鉱石を産出する、日本有数の鉱物資源の地であったのです。

南部藩では、内陸部に北上川を中心とする海運が発達していたため、江戸や近隣諸藩との交易でも船が使われ、年貢米や穀物取引、絹織物、綿、塩などの買い付けが行われていたそうです。

そして、江戸時代の末期、文政年間の1821年に、南部藩の軍用船が、西津軽郡の深浦町の沖合で沈没する、という事件が起こります。積んでいた金、銀、銅の財宝や小判が、船とともにこの地に沈んでしまった、というわけです。

大正初年に深浦沖の海底で小判3枚が発見されたこと、1948(昭和23)年には車力村(現つがる市)の七里長浜の海岸に、14枚の小判が打ち上げられています。また1955(昭和33)年にも近くの海底で30キロもある銅板2枚を拾った人が出て、この埋蔵金伝説が注目を集めることとなったのです。

<そのほかの埋蔵金伝説>

東日本には、このほかにも

■北海道 源義経の埋蔵金

「兄弟の確執が生み出した黄金伝説」

■岩手県 安倍貞任(あべ・さだとう)の埋蔵金

「栄華の日々が過ぎ、巻物に託された謎解きのヒント」

■岩手県 金鶏山の埋蔵金

「世界遺産の地に眠る聖なる山の伝説」

■福島県 蘆名義広(あしな・よしひろ)の埋蔵金

「大敗し、湖に沈めた財宝」

■東京都 彰義隊の埋蔵金

「時代の大変革の波に追われて、都市中枢に残した宝」

などが残されています。