The Man of The Month
「今月生まれのこの人」の “心にきざむ言葉”
「この瞬間、生きていることだけで十分だ!」 チャールズ・リンドバーグ
チャールズ・リンドバーグ
Charles Augustus Lindbergh
(1902年2月4日生まれ)
初の『大西洋単独無着陸飛行』を成功させ、 一介の郵便飛行士から英雄に!
1927年の5月21日、一機の飛行機が雨でぬかるんでいたニューヨーク・ルーズベルト空港を飛び立ちました。
アメリカの飛行家チャールズ・リンドバーグが操縦する「スピリット・オブ・セントルイス号」です。
携行している食糧はサンドイッチ5個と水1リットルのみ。目指すはフランスのパリ。世界で初めての「大西洋単独無着陸飛行」へのチャレンジでした。
リンドバーグはライト兄弟が初の飛行に成功する1年前の1902年に生まれています。
幼少の頃、母に連れられて遊びに行ったフォート・マイヤー基地で始めて飛行機が飛び立つのを見て興味を覚え、その後、彼は大学を中退し飛行機の専門学校に進みます。
パイロットのアシスタントも勤め、曲芸飛行も覚えます。22歳の時にはテキサス州サンアントニオの陸軍飛行学校に訓練生として入学、主席で卒業後は郵便飛行業務のパイロットに就いています。
まさに飛行機に「執着」した道を歩んでいるのです。
そのときに耳にしたのが、当時のホテル王だったレイモンド・オーティグが
「ニューヨーク・パリ間のノンストップ飛行に2万5000ドル(現在の約2億円)の懸賞金を出す!」
ということでした。
しかし、当時まったく無名だったリンドバーグには、自己資金は2000ドルしかありません。これでは、飛ぶための飛行機が調達できません。
すぐさまリンドバーグはセントルイスの有力者を説得して回り、銀行にも支援を仰ぎ、資金を集めて飛行機の製作を注文したのです。
自ら設計に加わり、トコトンまで軽量化した奇妙な飛行機
次の問題は飛行機の仕様です。
当時の技術では、大西洋横断には少なくとも三発複座(エンジン3機、乗員2名)の飛行機が必要だと思われていました。長距離の飛行を交代で操縦するためです。しかしリンドバーグは単発単座(エンジン1機、乗員1名)の飛行機を選び、発注します。
これは、リンドバーグが小さな頃に父から叩き込まれるように教えられていた「他人に頼るな」という教訓を守ったものだったのかもしれません。
資金不足のため、ニューヨークのベランカ社とは価格交渉が決裂し、引き受けてくれたのは、サンディエゴの社員40名に満たない小さな会社、ライアン社でした。
そして、2カ月後、ついに『スピリット・オブ・セントルイス号』が完成。
その飛行機は、ギリギリまで航続距離を伸ばすために操縦席の前にも燃料タンクが設置され、前方の窓がないという、奇妙な飛行機でした。外を見るための側面の小さな窓、前方を見るためには潜望鏡のようなものを使わなければいけませんでした。
無線装置も、パラシュートも積むことなく、地図の余白さえ切り取るほど、軽量化を追い求めます。
しかし、余裕を持ってテスト飛行をしている時間はありませんでした。ライバルたちも虎視眈々と出発の機会をうかがっていたからです。
大西洋では嵐が観測されていましたが、「天候は回復するだろう」との天気予報も出ました。完全に回復してからでは、ライバルに先を越される恐れがあると考えたリンドバーグは、早朝の出発を決心します。
「ヨーロッパ全行程にわたる完全無欠な好天候の確報など待っていられるものか! いまこそチャンスだ。よし、明け方に飛び出そう!」
33時間30分の飛行でパリに到達 世界中が「英雄」を迎える!
「リンドバーグ、飛び立つ!」
リンドバーグが出発すると、新聞紙面に大きな活字が躍りました。
目指すパリのル・ブールジェ空港までは5810キロメートル。冷気と睡魔と闘いながらの飛行です。
燃料がどこまで持つか、方向が間違っていないか、という不安もよぎります。意識を失いかけて大西洋の海面に突っ込みかけたリンドバーグは、死を意識することで睡魔の呪縛を破り、機を上昇させます。
もっとも、リンドバーグは、曲芸飛行パイロットの時に、緊急脱出を4度も経験し、怖れはありません。
「なんと大海原の美しいことよ! なんと大空の澄んでいることか! 炎のような太陽!」
「It’s enough to be alive this minute.(この瞬間、生きていることだけで十分だ!)」
飛行時間33時間30分。
25歳のリンドバーグはパリに到達します。
そこには英雄をひと目見ようと10万人もの群集が集まっていました。
着陸したリンドバーグが発した第一声は、
「整備士はいませんか?」
「誰か英語が話せる人はいませんか?」
という言葉だったそうです。
英雄となったリンドバーグを迎え入れるために、米国大統領クーリッジは軍艦を差し向けます。
ニューヨークに凱旋したリンドバーグを待っていたのは、400万人の大観衆と1800トンもの紙吹雪の嵐でした。
その後、その功績を讃えるために、世界中の国々が彼を招待し、1931 年(昭和6年)8月26日には、リンドバーグは、妻アン(Anne)とともに水上飛行機シリウス号に乗って初来日、霞ヶ浦にも降り立っています。
英雄の座からの「暗転」 「誘拐事件」「移住」、そして文明を避ける地へ
しかし、運命は皮肉なことに、ここまでの栄光とは裏腹な、過酷な未来がこの英雄を包んでいきます。
1932年3月1日、リンドバーグ家に突然不幸が襲います。1才の息子チャーリーが誘拐され、その70日後には、死体で発見されるという最悪の結末が待っていました。しかも、「誘拐事件」をスキャンダルにするマスコミ、好奇の目を向ける大衆に、リンドバーグは次第にその居場所を失っていきます。
1935年、リンドバーグ夫妻は英国・ロンドンへ移住。
ヒトラー政権下のドイツ空軍を訪問し、その先進ぶりに驚いたリンドバーグは「ヒトラーの政策を指示する発言」を行い、そのことは後に、第二次世界大戦へ入っていくアメリカで問題視され、非難の的になってしまいます。
リンドバーグの晩年は、文明を避けるかのように、フィリピンで野生動物保護のために時間を費やしたり、環境保護活動に参加、多額の資金を寄付した。
70歳になり、悪性リンパ腫を発症したリンドバーグは、妻のアン・モローと共にハワイ州のマウイ島に移り住んでいます。そして、1974年8月26日朝、マウイ島ハナのキパフルにある別荘で、72歳でこの世を去っています。
ちなみに、33歳の時にリンドバーグは、世界初の人工心臓である「カレル・リンドバーグポンプ」を開発しています。
これは、心臓弁膜症を患っていた姉のために、ノーベル医学・生理学賞を受賞した学者で外科医でもあるフランス人の外科医アレクシス・カレルの研究室を訪ね、二人の共同研究によって誕生したものだと言われています。
また、リンドバーグの愛機『スピリット・オブ・セントルイス号』は、現在もワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館(The National Air and Space Museum)に展示されています。
資料 スミソニアン航空宇宙博物館:
カテゴリ: 歴史