「失敗を恐れる心の中にこそ、恥辱は住む!」                  ヘンリー・フォード

ヘンリー・フォード

Henry Ford

(1863年7月30日生まれ)

「20世紀の自動車王」と呼ばれるヘンリー・フォードは、1863年7月30日に米国ミシガン州デトロイト郊外のグリーンフィールドで、農家に生まれました。

 

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3年間に2度の大きな挫折を経験  しかし、「自動車に賭ける夢」は諦めず!

 

少年の頃のフォードは、「機械いじり」が得意で、友人の時計を分解しては組立てる、といったことが大好きでした。

 

16歳のときからフォードは、「ジェームス・フラワー」社というデトロイトの機械工場の工員として働き始めます。

週給2ドル50セントという少ない給料のため、夜は宝石店で働き、9か月後には「ドライドックエンジンワークス」社へ転職。

その後、28歳の時にエジソンの作った「エジソン電灯会社」で、照明器具をつくる技師として働き、主任技師まで務めています。

 

フォードは真面目に仕事をこなす一方で、勤務時間が終わっても実験室にこもり、当時は庶民の高嶺の花であったガソリン自動車の製造を研究して行きます。パーティ会場で、尊敬するエジソンと会った際には、自分の「自動車に賭ける熱い夢」を語り、励まされます。

 

36歳のとき、フォードはやっと「デトロイト自動車会社」の設立にこぎつけますが、この会社は自動車レース用の車など、わずか21台の自動車を生産しただけで倒産してしまいます。フォードが望んだ「品質」に、到達することができず、低価格のクルマは遠い夢の先だったのです。

 

フォードは38歳のときにも「ヘンリーフォード会社」をつくり、自動車生産に挑戦します。

しかし、今度はすぐに共同経営者と意見の違いが生まれ、フォード自身がこの会社を去らなければいけない状況になってしまいました。

 

3年のうちの大きな挫折を2度も経験したフォードでしたが、あきらめることを知りません。

 

「失敗とは、より賢く再挑戦するためのよい機会である。まじめな失敗は、なんら恥ではない。失敗を恐れる心の中にこそ、恥辱は住む」

ヘンリー・フォードは、後にこの時代を振り返って、こんな言葉を遺しています。

 

1903年、40歳になったフォードは新たな会社「フォード・モーター・カンパニー」を設立し、3度目の自動車生産に挑みます。

 

汽車のように速く、そして、馬のようにどこへでも走れる乗り物を作りたい」 

 

フォードが目指したのは庶民の誰でもが手の届く価格で自動車を売ることでした。

 

低価格・高品質を実現した『T型フォード』、 「20世紀最大のヒット商品」へ

 

 

その夢を現実のものにしたのが、1907年にプロトタイプが完成し、翌1908年に発売された「T型フォード」でした。

 

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T型フォードは、キャデラックなどのライバル車が2000ドルから3000ドルもする高価なクルマだったの対し、1台850ドルで発売されました。

 

しかも、当時、開発されたばかりの「バナジウム鋼」を使用し、高速切削加工が可能で、軽く、しかも従来の鋼材の2倍の張力を備えている「高品質」な自動車でした。

 

 

1年目の販売台数は65台でしたが、2年目には1万1000台と急伸、3年目には1万9000台、1910年には3万5000台の生産を記録。

 

価格も1920年代には250ドルまで下がり、20年間、モデルチェンジせずに全世界で1500万台も生産される「20世紀最大のヒット商品」となったのです。

 

「ひとりの人間にとっての最大の発見、最大の驚きは、自分にはできないと思っていたことが実はできるのだと知ることである」 

 

この原動力となったのは、フォードがつくりあげた「大量生産」の仕組みでした。

生産する車はT型フォード1車種のみとして、余計な装飾を廃し、すべての車は黒1色。

「T型フォードを買う人はどの色でも好きに選べる――-それが黒色である限りは……」とフォードは言います。

 

作業を単純化し、ベルトコンベアに車の材料・部品を乗せて流し、徹底的な分業体制で各所に配置された工員が同じ作業を繰り返す「流れ作業」を導入したのです。

これによって従来は1台作るのに12時間かかっていた工程を1台1時間に短縮し、合理化による大幅コストダウンが実現したのです。

 

 

「流れ作業での大量生産」、その功と罪

 

 

フォードの功績は、大量生産方式を確立し、工業的生産によって自動車の大衆化を飛躍的に進展させたこと、と言えるかもしれません。

 

ただ、フォードが導入し、全世界へ波及させた大量生産・流れ作業の思想は、半面で大きな社会問題を生む原点にもなりました。

来る日も来る日も単純労働を繰り返す精神的苦痛を労働者に与え、多くの労働者が職場を去っていきました。

そのため、後にフォード社の生産方式はチャップリンの『モダンタイムス』で痛烈に批判される対象となったのです。

 

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ヘンリー・フォードが偉大な開発者であり、実業家であったことは否定できない事実です。

それは飽くなき情熱によって、自動車を大衆のものとし、新たな時代の幕を切り開いたからです。

 

ヘンリー・フォードはこう言っています。

「学ぶことをやめた者は老人である。二十歳であろうが八十歳であろうと、学び続ける者はいつまでも若い。人生で一番大切なことは、心の若さを保つことだ」

 

資料:ヘンリー・フォード博物館