かりかりアーカイブス(1)日本最古の尾去沢(おさりざわ)銅山が閉山に揺れた日

『週刊ダイヤモンド 1978年1月28日号掲載』
<現地ルポ>
“和銅年間”から13世紀、尾去沢(おさりざわ)の暗い新年 ー閉山に揺れる日本最古の銅鉱山ー

いまから44年ほど前、ロッキード事件の余韻、日航機ハイジャック事件の中に日本が揺れていた1977年前後、長引く世界的な銅市況の低迷で、日本の多くの鉱山が閉山への道を歩んでいました。日本最古の銅鉱山である秋田県「尾去沢鉱山」もその例外とはなりえませんでした。

記者は、その現地へ向かい、「閉山やむなし」の状況に包まれた町、人々、鉱山を取材していきました。かりかりアーカイブス1回目は、その現地レポートの記事です。
※地名、人名、役職名などはすべて取材当時のままです。

『週刊ダイヤモンド 1978年1月28日号掲載』
<現地ルポ>
“和銅年間”から13世紀、尾去沢(おさりざわ)の暗い新年
 ー閉山に揺れる日本最古の鉱山ー

銅価格市況の大幅低落から国内の銅鉱山の多くが危機に瀕している。なかでも日本最古の鉱山「尾去沢(おさりざわ)鉱山」の閉山方針発表は大きな衝撃を与えた。1300年近くにも及ぶ。その長い歴史の中で最後かも知れぬ正月を“ヤマ”は迎えている・・・。

 

異人と怪鳥と

年間平均気温9度℃、年間降水量1500ミリ。
これが1月、2月になると気温マイナス4 ℃、積雪は2メートルを超す。生活環境は良好とは言えない、と聞いていた。
国鉄(当時)・花輪線を盛岡から2時間、 陸中花輪駅で降りてさらに車で20 分、尾去沢への道は思っていた以上に遠い。

尾去沢(おさりざわ)鉱山―—秋田県鹿角市獅子沢。

この鉱山の発見には2つの伝説 がある。
旧記『紺子大権現御伝記』 によれ ば、そのひとつは和銀元年(西暦708年)までさかのぼる。時のみかど、元明天皇の命に従い、この地の村民一同、銀を探し求めて、大盛山のふもとに至った時、天空より容貌、獅子にも似た異人現われ、 従者の持ちたる梵天(筒のような装束)をとって谷に投げつけた。よって、村民その落ちた揚所に行ってみるとキラキラ光る石が散乱、それが 尾去沢銅鉱脈の発見になったという。

これが『異人伝説』

またもうひとつは、
文明13年(西暦1481年)足利義満が銀閣寺を造ったころ、尾去沢には夜ごと上空に怪しげな光を発する怪烏が出現、村民を恐れさせたという。慈顕院という行者が日々祈願したところ、 ある夜、怪鳥はわめきながら岩に突き当たったという。村人、その腹を裂いたところ、 中から金銀鉱の破片が見つかり、それを頼りに付近の谷を掘ってみたところ、思わぬ鉱脈の発見になったという。
これを『怪烏伝説』という。

どちらが正しいものなのかは定かではない。ただ、正式な記録によるものだけでも、尾去沢鉱山は掘り続けてすでに380年以上に及ぶという。この 日本最古の鉱山、尾去沢鉱山にいま閉山の日が近づいてきている。
昨1977年(昭52年)11月12日、会社側から閉山方針案が発表された。
「銅価格低落のほか生産コストの上昇、運転資金の確保難という“三重苦”’を背負い、もはや企業努力の限界を超えて・・・」
南哲夫社長、 高杉信一取締役によって方針案が読み上げられた。
並び称せられた古河の足尾銅山、住友の別子銅山はすでになく、いままた、三菱の尾去沢が・・・。尾去沢鉱山が三菱金属から分離されて6年目。異人伝説、708年の発見 から1269年目のことである。

「尾去沢鉱山」ーかつて東洋一と言われた”選鉱所”も、いまやその能力は半減している。

衰えてきた“ヤマ”

尾去沢の1270年目は、正月3日の仕事始めから始まった。鉱夫さんたちはいつも通り、すでに8時過ぎには坑道の中へ入っている。
外は1メートルの雪。雪に埋もれたヤマの中は総延長500キロメートルに及ぶという坑道が網目のように走っている。実に東京~京都間の長さであり、それは尾去沢の歩いてきた歴史の跡でもある。
記者は、8時30分、山田亨・採鉱課長(取締役)とともに入坑。ヘルメットにつけた明りだけが頼りだが、岩盤の固さが安心感を与えてくれる。
「景観の良さと、作業のための条件には本当に恵まれたヤマなんですが」ーー

尾去沢では当初の1月末という閉山予定時期が「もう一度、死んだ気になってがんばってみよう」ということから延期され、現在は、会社側も「1月末閉山にはこだわらない」というようになっている。ただ、そのかわリ、この尾去沢鉱山に課せられた条件は「月3000万円以内の赤字に抑える」という命題だった。
1977年(昭和55年)10月以来、銅地金相場はトン当り32万円台、3年ぶりの安値を更新し、20年前の水準で低迷している。 それに対し銅1トンを掘り出すコストは約50万円かかる。国内鉱山保護の輪入遠付金(約10万円)を計算に入れても、まだ1トン掘るごとに確実に7~8万円の赤字を出てしまう。
尾去沢鉱山は月々2万トンの鉱石、銅地金換算で約300トンを産出するので、それだけで1ヵ月の赤字は 2100~2400万円。探鉱費用を加えれば月3000万円以内の赤字に抑えることは決して容易なことではない。
もうひとつ3000万円の根拠として、鉱山は閉山しても、公害防止のため坑内廃水処理費用がかかる。それが当初月3000万円近い。閉山しても3000万円、続けても3000万円、「それならば続けて・・・」というわけである。
しかしながら、このヤマは江戸時代には南部藩の手で、明治以降は三菱財閥の手によって、大正、昭和の時代へと銅鉱石を生み出し続けてきた。鉱山には寿命があり、ヤマ自体がすでに衰え、老いている。

(銅価格推移グラフ)13年ぶりの銅市況低迷が鉱山の寿命を縮めた。

尾去沢鉱山の品位(鉱石から採れる銅量)は普通0.8%~1.1%。現在、銅山として継続的事業としてやっていける品位は平均で1.65%程度と言われている。
鉱山というのは、銅価格が高ければ低品位の採鉱でも十分採算がとれ、限られた鉱量も有効に生き、ヤマの寿命は伸びることができる。反対に、銅価が安ければ、鉱山は高品位採鉱、いわゆる“抜き掘り”を余儀なくされ、自らヤマの寿命を縮めていくことになってしまう。
「尾去沢はいままで低品位・大量処理でやってきたヤマ」(高杉取締役)という。 品位1.65%という数字は、すでに盛りをすぎたこの鉱山にとっては過酷な数字である。
「尾去沢の高品位鉱床はもう掘り尽くすところまできている」――
そのあとは効率がガタッと落ちる。採鉱コストはいっぺんに上がる。赤字は急激に膨らんでいく。鉱量の枯渇が間近に迫った尾去沢鉱山には、その“責め苦”が待っている。
「このヤマが死んでいく時は天寿を全うした、と言ってやりたい。ただ、98まで生きれば、誰だって100まで生きたい、100まで生かしてやりたい、と思うもの、それが人情でしょう」(山田・採鉱課長)

「閉山やむなし」の空気の中でも、地元、市、県、労組なと、何とか延命を望む声は強い。だが、1月末の閉山は回避されたとしても、その命は延びてもおそらく数ヵ月・・・。
南哲夫社長は言う。
「1月はいい、2月も多分大丈夫だろう。そうやって翌月、月の生産計画を立てていく。そして、その計画が立たなくなった時、その時が・・・」

探鉱に最後の望み

坑道を2時間歩いても出会う人はわずか数人。それでも、いつもどこからか削岩機の音が聞こえ、鉱車の音が近づいてくる。
過去には奈良の大仏建立に尾去沢の銅が使われたという。江戸時代にはオランダ、スベインとの貿易での主要見返リ品として、この尾去沢から大量の銅が長崎に送られている。
明治に入ってからは政商•岡田平蔵の手に渡るにあたって、大疑獄事件の舞台になったこともある。明治22年、三菱に経営が移って、この鉱山部は三菱合資会社の利益の8割をかせぎ出し、また、銅が主要な輸出品だったことから、銅山の活躍は三菱の海運部門、商事部門を大きく育て、財閥の基盤づくりに名実ともに中心的役割を果たしてきた。
しかし、銅山が衰えを見せ始めるや否や、危機はやつぎ早やに襲ってきている。
昭和41年1月、製錬所の廃止。77年間燃え続けた炉の火力が消え、129人かこの尾去沢から去っていった。

昭和41年の製錬所の廃止は合理化の第一歩だった。いまや、その煙突から煙が上がることはない。

42年にも200人の減員と規模を縮小。47年には同じ三菱傘下の鷲合森(岩手)、妙法(和歌山)、生野(兵車)が閉山の憂き目を見たのに対し、この尾去沢は「新会社へ分離」という形で、かろうじて閉山を免れた。
ただ、この時にも197人がヤマを去っていった。50年12月にも232人が。
相次ぐ台理化のあらしの前に、最盛期の昭33-~34年ごろに2200人以上いた鉱山従業員もいまや219人。かつて月8万トンを超えた粗鉱処理量もいまや2万トン。
思えば、昭49年5月にオイル・ショック後、銅価が1トン当たリ89万円とバ力高値をつけた時に分離後はじめて記録した黒字、それと昭和48年、夢にまでみた新鉱脈‘’大物鉱“ の発見の2つがヤマを包んだ明るい話だった。
“大物”という名が示すように、ヤマの期待を一身に集め、三菱金属・相京光雄会長(当時)自らが坑道内に入って確かめたというこの「大物鉱」。

だが、惜しむらくは、昭26年発見の「昭和鉱」、昭37年発見の「田ノ沢鉱」と比べ、明らかにその鉱脈の規模は小さかった。
いま、この大物鉱も鉱量はあと10万トン余り。
「本当は、3年前に寿命が尽きていたヤマ」
社会情勢を考えると、3年間生き延びたことが幸いだったのか、不幸だったのかを言うことは難しい。

かつて尾去沢の隆盛を築いた「昭和鉱」の坑道入口

労組の斎藤竹三委員長は言う。
「平均年齢も48歳と若くない。鉱山労働者にいま、ここを出ていけと言われても、外にアテのある者も、受けてくれる者もいない」
現在、銅の世界的在庫は230万トン。通常在庫の2倍以上に溜まっている。これがハケるには、少なくとも4~5年かかると言われておリ、銅価の急激な上昇は望めない。

尾去沢鉱山は、いま最後の望みを“.探鉱” に賭けている。何としても新しい鉱脈を見つけること、それがこの鉱山の延命につながる、最後のカギである。
従業員の大半が4回に1回は休日を返上し、“月休2日”の人も多い。
分離後の6年間で坑道探鉱4万2000メートル、試錐探鉱2万5000メートルという距離は、衰えつつある山の中で、驚異的な数字を記録している。ヤマに関わる人々の努力がそこにある。
新しい大鉱脈を発見できる可能性はほとんどない。そんなムードの中でも、月250メートの探鉱が続けて行なわれており、1メートルの探鉱に費用は4万円かかってっしまう。赤字決算の中、限られた費用の中で、人々がこのヤマに賭ける情熱が決して衰えていないことを知ることができる。

鉱山で生きる街と人と

旧・尾去沢町—――(現在は合併し鹿角市尾去沢地区)。鉱山とともに生まれ、育ち、かつては人口の80%以上が鉱山関係者という典型的な鉱山町である。
この町が今まで鉱山から受けてきたものは数えきれない。
学校、町役場、野球場、プール、テニスコート、武道館、山神社・・・。
鉱山からの税収で、町は使い切れぬほどの資金にあふれ、国の交付税を必要としなかったほどだ。
昭35年、この山合いの小さな町が「テレピ昔及率で、全国1位」という栄華をもきわめた。それも.これも鉱山の繁栄がもたらしたものだ。
この地区の767戸の電力、上水道はいまだに鉱山の所有、運営である。町いちばんの購買所( スーパー)も・・・。
現在ではその与えられたものの大きさに、鉱山依存からかんたんには抜け出せない町と、この10年間で人口の40%以上が出ていってしまった、という過疎問題が残ってしまっている。

昔は1万人の往来でにぎわった尾去沢の市街地もいまや行きかう人も少なく寂しい。

鹿角市議会事務所局長の内田仙一氏は、「鉱山がなくなった場合の尾去沢地区は?」という問いに対し、「最悪の楊合、廃虚になることも」と答えている。
事実 鷲合森、生野は鉱山閉山後、街はゴーストタウン化してしまっている。
尾去沢商工会長の田村平太郎氏は「鉱山依存から脱け出すために、地区のベッドタウン化を心がけてはきたが・・・」という。市街地と並行して建ち並ぶ新興住宅群が新しい尾去沢の一端をのぞかせる。しかし、鹿角市全体が人口滅少に頭を悩ませているいま、このベッドタウン化にも大きな将米は見いだせない。

鹿角市には鉱山を“飯のタネ”としている下請け業者が11社あり、514人が働いている。市内の大企業はすべて鉱山に関係している。鉱石搬送、坑内木材納入、ボーリング業者等。100年以上の歴史をもつ最大手“丸佐運送”でも、コトはすでに従業員の雇用問題にまで及んでいる。
鉱山以外には観光しかなく、他に主たる産業を持たないこの鹿角市にとって、鉱山からハキ出される220人はもとより、下請け労働者500人の働きロを見つけることは難しい、と言わざるを得ない。
「閉山は即、市勢の衰退につながってくる」(児玉政吉・鹿角市長)。

11月21日に鹿角市では議員10人から成る『閉山対策特別委員会』 を発足させた。すでに3回の会合、秋田県への陳情、1月9日にはそろって上京、三菱金属本社を訪ねている。
「閉山に代わる何か工場の誘致を・・・」という市側の要望も、秋田県の進める内陸工業団地でさえ入居企業のない今、頼るのは“三菱”という大きなカサの中しかない。

街はすでに“鉱山抜き”の姿への模索を始めようとしている。しかし、その一歩をどこに進めたらいいのか。あふれる人々を抱え、哀退する市勢の中で、いずれも暗中にある。

せめて春まで

貨本金2億円の株式会社『尾去沢鉱山』は、累積欠損14億円、借入金20億円。鉱山閉鎖後に残るものは、この消せるアテのない赤字、返すアテのない借入金と、銅市況好転時につくった小さなタイマーエ楊のみ。
三菱マロリーの外注工場として、従業員32人、タイムスイッチ月産5万個、月間売上高400万円の規模である。
「本来ならこれを足がかりに何か仕事を引っ張ってこようと思っていたが、いまはそんないい話もない。何とか生産を拡大して従業員の奥さんの働き口にでもなれば」と南哲夫社長は言う。

東北縦貫道が完成すれば、環境は変わるかもしれない。しかし、完成の58年まで持ちこたえる力は尾去沢にはない。
鉱山としても、いま叫ばれている鉱業基本法の制定、中小鉱山の保護など、一連の助成策を待っている力はすでにない。尾去沢鉱山とっては、希望の芽は遠く、遅すぎるのである。

非鉄金属鉱山は日本全体で、この6年間で150鉱山が消えていった。現在の銅価32万円台、採掘コストとの差10万円の状態では尾去沢のみならず全国の銅山すべてが生死の境にある。抗えない現実である。

もってもあと数ヵ月。閉山が近づいてくるこの尾去沢の人たちにとって、来年の正月はどこで、どう過ごすのだろうか。
「このあたりの冬は雪深く厳しい。せめて春まで持ちこたえれば・・・」
1270年――。伝説の中にその起源を包まれた尾去沢鉱山は、その終末に一体どんな話を残していくのだろうか。

 

●取材時を掘り起こす

盛岡からJR(当時・国鉄)花輪線で2時間ほど。「陸中花輪駅(現在・鹿角花輪駅へ改称)」から5分ほどの旅館に泊まり、鉱山、鹿角市役所、商工会などで話をうかがった。
「閉山」という暗いテーマの取材に、皆さん、淡々とした口調で話していただいたことが印象的でした。鉱山も親会社も、企業努力の範疇をすでに超え、政府の助成策でもどうにもならない現実の前に、抗いようがないという空気がなんとも重く感じたのを覚えています。

山田亨・採鉱課長(取締役)に案内していただき、坑道の中を数時間歩き、丸太一本に足を引っ掛ける切り込みを付けただけのハシゴ、尾去沢名物の「一本梯子」にも挑戦させてもらいました。

「鉱夫の仕事でいちばんやり切れなさを感じるのは、自分が掘っていることが儲けにつながっていない、赤字が生まれている、ってときなんですよ」と言った言葉が忘れられません。

尾去沢鉱山から産出された「黄銅鉱」鉱石。キラキラと輝く黄銅が栄華を感じさせる。

●現在の尾去沢鉱山

「尾去沢鉱山」は取材後5カ月ほどたった1978年5月31日に閉山の日を迎えました。ただ、その翌年には、秋田県・鹿角市・尾去沢鉱山(株)・秋北バス(株)などを中心とする「鹿角市尾去沢観光開発調査委員会」が発足し、約1年間の討議を経て、地域の活性化を図るため、鉱山跡を“観光施設”として活用する方策が報告書としてまとめられています。
そして、準備期間4年間を経て、テーマパークとして坑道内見学コースや資料館、砂金採り施設などが整備され、1982年4月に『マインランド尾去沢(史跡尾去沢鉱山)』としてスタートしています。運営は、現在、三菱マテリアルの子会社「株式会社ゴールデン佐渡」が行っています。
このヤマに関わっている人々が皆、「なんとか歴史を紡いでいきたい」という姿をそこに見ることができます。

 

現在「史跡・尾去沢鉱山」として「テーマパークとして、ヤマの歴史が受け継がれている。

ホームページ:史跡 尾去沢鉱山 「1300年の歴史を誇る銅鉱脈群採堀跡」
http://www.osarizawa.jp/