The Man of The Month
「今月生まれのこの人」の “心にきざむ言葉”
「いつも2階席のお客さんのことを大切に思ってきた!」 白井義男
白井 義男
しらい よしお
(1923年11月23日生まれ)
いまから60年前の1952年の5月。4万人の大観衆をのみ込んだ後楽園球場で、ひとりの日本人ボクサーの手が高々と掲げられました。
彼の名は白井義男。
大震災の2ヵ月後に生まれ、
カンガルーとの対戦をキッカケにボクシングへ踏み出す
日本人ボクサーとして初の世界チャンピオンです。
彼は、敗戦に打ちひしがれていた日本に勇気を与えたチャンピオンだったと言えるでしょう。
白井義男は、大正12年(1923年)に、東京都荒川区三河島に生まれています。
父親は大工の棟梁で、1923年9月の関東大震災で墨田区の家を焼かれ、三河島に逃げていました。その年の11月に生まれたのが白井義男さんだったのです。
白井とボクシングとの出会いは、小学6年生の時でした。
小学校の前の広場に旅回りのサーカス一座がやってきて、『カンガルーを相手にボクシングで闘う』という余興があったのです。
果敢に挑戦した白井少年でしたが、カンガルーのパンチは予想以上に強烈で、ピンチの連続です。
ところが、カンガルーの放った最後の一撃が、白井少年の下半身を直撃してしまったのです。痛さに崩れ落ちた白井少年でしたが、ルールにより「反則で、白井少年の勝ち」となったのです。
以来、ボクシングにのめり込んだ白井は、練習を重ね、戦時下の昭和18年に、20歳でプロボクサーとしてデビューします。
初戦から6戦全勝。その5KOはすべて初回KOという強打ぶりを発揮します。
しかし、戦火が激しくなる中で、白井も召集され、海軍航空隊の一員として従軍します。
終戦後、白井は再びリングに戻ってきました。
そのとき、海軍の飛行機整備士として激務をこなした後遺症が白井の身体をむしばんでいました。坐骨神経痛による「腰痛」が、容赦なく白井を襲います。
思ったような試合はできず、再デビュー後の戦績は3勝3敗。引退の淵に追い込まれるのです。
東京・御徒町の「日拳ジム」で、懸命な練習に励む白井の姿に、一人の外人が足を止めます。
「彼はチャンピオンだ!」
カーン博士と二人で先進のボクシングを創り出す
絶望の中で、ユダヤ人の生物学者・アルビン・カーン博士との出会いが、白井の運命を大きく変えていくことになるのです。
カーン博士は当時、GHQ(連合軍総司令部)の資源局将校として働いていましたが、ボクシング経験はゼロ。しかし、身体機能研究者であり、体育コーチの経験があったカーン博士は、偶然に見かけた白井の身のこなしにひらめきを感じ、足をとめたのです。
ジムの関係者に
「あそこにいるチャンピオンは?」
「白井ですか? 戦前はいいボクサーでしたが、腰痛持ちで、トシですから・・・」
「違う! 彼はチャンピオンだ。私にはわかる」
「私のコーチングを受けてみないか」
カーン博士の言葉で、二人の間にすぐさま信頼と友情の絆が生まれます。
白井がカーン博士から指導されたのは「打たせずに打つ」という、先進的・科学的ボクシング・スタイルでした。
軽快なフットワークに乗せて放つジャブ、強烈なワン・ツー。何よりガード、スウェーバック、ウィービングを駆使したディフェンス技術は、当時、世界の誰もマネできない水準に達したのです。
カーン博士は白井の左ジャブ、右ストレートを「ナチュラルタイミング!」と表現し、その天性の才能高く評価していました。カーン博士は「身体に不自然な負荷を掛けてはならない」という理由で、早朝からのロードワークを禁止し、栄養面にも気を配ります。
連戦連勝。以前3敗を喫したそれぞれのボクサーとも再戦し、ことごとく勝利を収めます。国内無敵となった白井は、ホノルルでのンタイトル戦で、当時の世界チャンピオン、ダド・マリノにTKO勝ち、という金星を挙げます。
リングを降りた新王者の姿に
多くの人々が涙したその日
日本人ボクサーが世界王座に手が届くかもしれない。大きな期待が、日本のボクシング界を覆い、その準備として、日本に『日本ボクシング・コミッション』が誕生しました。
昭和27年の5月19日、後楽園球場の特設リングで、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノとのタイトルマッチを迎えるのです。
4万人の大観衆が見守る中、カーン博士に「日本人のために闘い、勝て!」と勇気づけられた白井は、15ラウンドを闘い抜き、大差の判定勝ちを収めたのです。
その日の様子を、ボクシング記者の大御所・中川幹郎氏はこう描写しています。
リングを降りて、控え室に向おうとする新王者・白井を一目見ようと、通路脇に観客が押し寄せる。そこで館内放送が流れる。
「押さないでください。押さないでください。白井は疲れております。白井は、大変疲れております」
それを聞いた人々は、その場で立ち止まり、リングを後にするヒーローの純白のガウンを満場の拍手で送ったという。
多くの人々の目からは、涙が溢れ出していた・・・。
敗戦に打ちひしがれていた日本にとって、世界チャンピオンとなった白井は、水泳の古橋広之進と並ぶ「希望の光」でした。
カーン博士と二人三脚で作り上げた、洗練されたボクシングで、世界タイトル戦の4度防衛に成功。昭和29年11月に、アルゼンチンのパスカル・ぺレスに、15回判定負けし王座陥落しますが、この試合はテレビ放送され、視聴率は96.1%という驚異的な数字を叩き出しています。
カーン博士との深い友情の絆
いつも、その身を律した世界チャンピオン
白井がボクシング界を引退する際に、カーン博士はこう言います。
「昔、青少年の憧れのマトだったお前が醜態を見せたら何と言われる。あれが往年の世界チャンピオンだった白井か、ああだらしない。そんな姿だけは見せちゃいけないよ」
カーン博士は、現役を引退する白井へ自分の貯金を差し出したのです。
カーン博士は、白井を指導することで得た「マネジャー料」に一円たりとも手をつけていませんでした。
その貯金は、いずれ現役を退く白井のために「退職金、その後の資金」として積んでおいたものだったのです。
そんなカーン博士の厚意に白井も全幅の信頼を持って応え、晩年のカーン博士を家族として迎え入れ、臨終の際まで看取ります。
カーン博士の教えを守った白井は、リンクサイド、また公の場に現れるとき、ほとんどいつも三つ揃えのスーツかタキシードを着て、髪はオールバックに整え、いつも穏やかな微笑をたたえていたのです。
後に、日刊スポーツの記者・後藤新弥氏が、取材した際の白井の言葉をこう記しています。
「ボクシングではね、2階席のお客さんが一番大事なんですよ。いい服着て、何千円も払ってリングサイドに来てくれる人も大事なんですが、本当はそうじゃない。 工場から油で汚れた服も着替えずに飛んできて、300円の2階席で声を限りに応援してくれる人。 僕はいつも、そういうファンを大切に思ってきた・・・」
白井はボクシング解説者、後進の指導に当たり、80歳で肺炎のためこの世を去って行きました。
※なお、本稿は、ワールドボクシング誌ライターの粂川麻里生(くめかわまりお)氏の
コラムを大きく引用させていただいております。
→ 白井義男氏の遺したもの
カテゴリ: 歴史