「戦争写真家の切なる願い、それは失業だ」                   ロバート・キャパ

ロバート・キャパ

Robert Capa

(1913年10月22日生まれ)

借り物のカメラから
スタートしたカメラマン生活

20世紀を代表する報道カメラマンとして、一時代を築いたロバート・キャパ。彼は戦場で生き、戦場に散ったフォトジャーナリストと言えるのかもしれません。

ズペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦、第一次中東戦争、インドシナ戦争など5つの戦場を取材し、『戦争の現場』を撮り続けたキャパの写真は、いまなお多くの衝撃を人びとに与え続けています。

キャパは1913年、ハンガリー・ブタペストで服飾店を営むユダヤ系夫婦の次男として生まれました。
本名はエンドレ・フリーマン。
第一次世界大戦で独立を手にしたハンガリーでしたが、経済的には苦しく、政治的・社会的混乱が続いていました。

ドイツの政治高等専門学校に通っていたキャパも仕送りが途絶え、やむなく写真通信社「デフォト」の暗室助手として働き始めます。
夏は公園のベンチで寝起きし、現像・焼付けだけでなく、配達、電話応対などの仕事をこなす日々の中で、キャパにカメラマンとしての初仕事が回ってきました。

そのとき、借り物のライカで、国際反戦会議でのトロツキーの講演している姿を撮った一枚が「写真家」として最初の脚光を浴びた画像でした。

旅行社カメラマン、通信社臨時雇いカメラマンとして働き、毎日新聞・パリ支局の仕事もこなします。
そして、彼は本名ではなく、カメラマン・ネームの「ロバート・キャパ」として、写真を撮り始めます。写真を高く売るために、彼自身が、架空のアメリカ人カメラマン、ロバート・キャパを創りだしたのです。

1932年、キャパはスペイン市民戦争の戦場へ取材に出かけ、命懸けの撮影に挑みます。
戦場の最前線で撮った『崩れ落ちる兵士』は、戦争の真実をとらえた一枚として多くの人に衝撃を与え、ヨーロッパのメディアだけでなく、米国の「LIFE」誌も取り上げ、キャパの名は不動のものとなって行きます。

スペイン市民戦争の最前線にいたときの記憶を、キャパは次のように語っています。
「戦争は日常化していた。いつものように、異常が正常になった」

ついさっきまで、目の前で歌を歌っていた兵士が、突然、銃弾に崩れ落ちていきます。
「そこに居合わせなかった人にとって、切り取られた一部分は、ことの全体像よりも真実を伝えることがある」

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いい写真が撮れないとすれば
それは、近寄りかたが足りないからだ!

第二次世界大戦の戦地で、爆撃機から降りてきた負傷兵が、キャパに対して言葉を放ちました。
「不幸を待つハイエナ!」
この一言は、キャパに大きなショックを与えました。

そこで、キャパは「戦場カメラマンとして活動するからには、自らが兵士とともに前線に立ち、同じ危険に身をさらし、カメラを構える」ということを自らに課したのです。

ノルマンディー上陸作戦の取材では、兵士とともに上陸用舟艇に乗り、ドイツ戦線ではライン川への落下傘降下を行い、常に最前線で写真を撮り続けたのです。

「もし、いい写真が撮れないとすれば、それは近寄りかたが足りないからだ」。それがキャパの信条でした。

第二次大戦終了後、キャパは写真家集団「マグナム・フォト社」を結成し、カメラマン達自身が自主的に仕事を創り、著作権の管理をする会社の運営に集中します。

しかし、日本に来日中に依頼されたインドシナ戦線の取材に、再び彼の「戦場カメラマン」としての熱が呼び起こされます。
そして、1954年5月25日、ベトナム・ドアイタンの最前線の地でキャパは地雷を踏み、40歳の生涯をあっけなく閉じてしまったのです。

参考資料:ロバート・キャパ「ちょっとピンボケ」(文春文庫)
「フォトグラフス―ロバート・キャパ写真集」(文芸春秋)