「これでいいのだ!!」

赤塚 不二夫

(あかつか・ふじお)

(1935年9月14日生まれ)

日本のギャグ漫画を代表する漫画家と言えば、赤塚不二夫さんを第一に挙げる人も多いと思います。赤塚さんが生み出したキャラクターは、おそ松君、天才バカボン、秘密のアッコちゃん、もーれつア太郎といった主役級だけでなく、ワキ役であっても、イヤミさん、バカボンのパパ、ニャロメ、チビ太、ハタ坊、レレレのおじさん……など、みな「ひと癖もふた癖」も持った、忘れることのできない個性豊かな人たち?でした。

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かわいがってる猫「菊千代」とともに。(フジオプロより)

ナンセンスあり、シュールであり、アナーキーあり。いずれも世間の常識にはかからない、破天荒な登場人物でしたが、なぜか「愛される」素地を持った、魅力的なキャラクターだったのです。

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個性豊かな多彩なキャラクターが、赤塚不二夫によって生み出された。

しかし、赤塚不二夫三でも、売れるまでには大きな労苦があり、辛酸をなめてきました。今回は、その軌跡を追ってみましょう。

戦争へ突入していく時代の中、「満州」で生まれる。
戦後に佐世保に帰ってくる

赤塚不二夫は、昭和10年(1935年)に旧満州国に生まれています。
本人にいわせれば「正確に言うと、承徳から西へ特選距離で70キロほど行った古北口(現在の北京市北東部)生まれ」です。

本名は赤塚藤雄。生まれた時期は、何しろ日中戦争が始まろうとする前夜です。華北一帯には、日本の侵略に反対する「反日運動」が巻き起こっているさ中です。

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不二夫が4~5歳の頃、両親とともに(ペンプラス・いまだから赤塚不二夫)

しかも、旧満州の気候は、春と秋がなく、少し暖かくなってくると「黄砂」が飛んできて太陽は見えず、10月には粉雪が舞い、厳しい寒さが始まりまるとい過酷さです。

戦争への突入、戦局の悪化による窮状は赤塚不二夫の一家にも容赦なく襲ってきます。
兄弟は男3人、女3人の6人兄弟で、不二夫は長男でしたが、終戦の時には病気で妹1人を失い、男兄弟の一人は養子に出していました。

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言葉に言い尽くせないほどの苦労をして、佐世保に到着した引揚げ船から降りてくる人々(佐世保市役所資料より)

終戦となっても、父はシベリア抑留へ。不二夫が、母と兄弟4人で日本へ戻ってきたのは、昭和21年(1946)の小学校4年生の時でした。
昭和21年の6月15日に佐世保に上陸。当時、不二夫の楽しみは、段々畑にたわわに実る「ビワ」でした。近所のおばさんたちにも頼まれ、市場へ「ビワ買い」に行くのが不二夫の役目で、そのお駄賃に「ビワを2~3個」もらうのでした。

の故郷、大和郡山での「ほっとした時間」
その後の漫画に影響を与えた仲間たちといたずら

その後、母の故郷である、奈良県・大和郡山へ移住。わずか2年ほどの大和郡山暮らしでしたが、近所の「悪ガキ仲間」とのいたずら遊び、学校をさぼっての『秘密の巣』と呼ぶ隠れ家遊び、川遊び、柿の実とり・・・。不二夫が「あぁ、戻ってきてよかった」と感じることのできた時間だったのです。

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母親の故郷、奈良県の大和郡山の風景

この時の仲間との体験は、のちの『おそ松くん』の発想の原点になり、チビ太などのキャラクターのモデルにも影響しています。

奇想天外のギャグなども これらの遊びを通じた人間模様から生まれ、赤塚漫画の原点にもなったのです。

「漫画家になる」と意思を固めた日々
東京へ行くめぐり合わせに

小学生高学年から中学生になっていく不二夫に大きな影響を与えたのは、漫画家・手塚治虫の『前世紀ロストワールド』でした。
「漫画家になる」というおぼろげな希望が不二夫の中に芽生え始めたのです。

不二夫がはじめて描いたSF漫画は『ダイヤモンド島』というタイトルでしたが、母親に付き添ってもらって、大阪の出版社に持っていきます。
「もうちょっと、勉強したほうがいいかな」と担当者に言われ、不二夫はその後も漫画の世界にのめり込んでいきます。

当時、『漫画少年』という雑誌に、投稿欄があり、入選して掲載されると漫少バッヂという商品がもらえるしくみでしたが、そのカベは高く、何度も投降した不二夫少年には実現しませんでした。

中学を卒業したあと、不二夫は新潟の看板屋さんに就職。無料で「洋画」を見ることのできる楽しみもできました。
しかし、不二夫の集中は、漫画へのものです。
看板屋さんで3年過ごしたとき、看板屋さんのおやじさんから
「知り合いに頼まれたんだけど、お前、東京で働く気はないかい?」
「もし1年で辞めてもいいなら、行ってもいい」
と、不二夫は答え、19歳で東京へ向かったのです。
ここから、赤塚不二夫の運命は大きな転換へ向かっていくのです。

漫画家仲間との交流が始まる
「神様」と思っていた手塚治虫を訪問

「エビス工業」という化学工場で働きながら、不二夫は時間を見つけては漫画を描き、4コマ漫画が「漫画少年」の投稿欄でも、時折、入選するようになっていきました。
そして、入選者同士の横のつながりもでき始め、石ノ森章太郎、松本零士、石川球太らと親交が始まります。

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「漫画」の仕事に向き合う赤塚不二夫(赤塚不二夫自叙伝より)

二十歳になる直前の夏、昭和30年(1955)年8月のことです。
不二夫は、石ノ森章太郎と長谷邦夫と3人で、思い切って「神様」とも思っている手塚治虫の家を訪ねていきました。

「心臓が止まるくらい、どきどきした」
突然の訪問にもかかわらず、手塚治虫は3人を家の中にこころよく招き入れ、「近所の食堂から出前を取るから、何でも好きなものを選びなさい」と言わってくれました。
石ノ森と長谷は「カツ丼」と即答したが、赤塚は、腹ペコだったにもかかわらず
「おなかいっぱいです」。
緊張のあまり思わずそう答えてしまったのです。

「一流の漫画家になるには、漫画ばかり描いていてもダメだよ。音楽を聴き、映画も見て、芝居も見なさい」と手塚治虫は話し、自らピアノまで演奏してくれたそうです。

「トキワ荘」へ転がり込む
突然に舞い込んできた雑誌の仕事

「エビス工業」社長の理解もあって、独立し、漫画家仲間である横田徳雄とアパートに入居。
曙出版という会社から、はじめて単行本を出すことができたのは、昭和31年。少女漫画『嵐をこえて』という本でした。
その後も、単行本2冊を出しますが、売れません。
その頃、宮城県から上京してきた石ノ森章太郎が、豊島区椎名町のアパートに住み始めます、その名は『トキワ荘』。
かつては手塚治虫も住んでいたこともある、「漫画家」の巣窟です。

食べるにも困っていた不二夫は、トキワ荘に入りびたり、石ノ森のアシスタントをやったり、「ごはん焚き」や「洗濯」をやり、「トキワ荘にズルズルと住むようになっていった」のです。トキワ荘には親分格でもあった寺田ヒロオをはじめ、藤子不二雄、つのだじろう、園山俊二といった、その後の漫画界をけん引する若者たちが作品作りに没頭していました。

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木造二階建てだった旧「トキワ荘」(赤塚不二夫自叙伝)

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「トキワ荘」には漫画化を目指す才能多き若者が集まっていた。(赤塚不二夫自叙伝より)

2年ほどたったころ、石ノ森に少年漫画誌「漫画王」を出していた秋田書店編集者が飛び込んできました。

「誰か、明日までに8ページのユーモア漫画を描いてくれる人はいませんか? 作家の急病で穴が開いてしまったんです」
「その手の漫画だったら、赤塚に描かせてみたら……」
と石ノ森が勧めてくれたのです。

掲載されたのは『ナマちゃん』。
当初は読み切り漫画の予定でしたが、発売された少年漫画誌を見ると、「新連載爆笑漫画」となっています。
「実は知らされてなくて、えっ? 連載! 飛び上がって喜んだよ」
赤塚不二夫にとって初めての少年漫画誌の連載だったのです。

赤塚ギャグ漫画が評判を呼んでいく
「おそ松くん」の大ヒットへつながっていく

「赤塚不二夫のギャグ漫画は新しい発想が詰まっている」という評判も広がり始め、不二夫の仕事は急ピッチで忙しくなりました。
連載物も2pもの、4pもの、8pもの……。
「漫画週刊誌」の創刊ブームが拍車をかけて行きます。

昭和37年(1962)のは小学館の週刊少年サンデーに『おそ松くん』の連載が開始。
その「異質なギャグ」は、これまでユーモア漫画、おもしろ漫画と呼ばれていた世界の漫画とは一線を画し、日本に「ギャグ漫画」という新たなジャンルを生み出したのです。

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大ヒット作となった「おそ松君」のヒトコマ(小学館より)

同年、集英社のりぼんには『ひみつのアッコちゃん』が 連載を開始。
赤塚不二夫は、一躍人気漫画作家となっていくのです。

赤塚不二夫が拓いていったギャグ漫画の世界
周りの人たちへの感謝を常に忘れず

その後の赤塚不二夫の活躍ぶりは、漫画を通じてよく知られています。
『レッツラゴン』、『もーれつア太郎』、『天才バカボン』、『ギャグゲリラ』など、テレビでアニメ化されたり、数々の漫画賞を受賞したり、日本のギャグ漫画の代表ともいえる存在になったのです。

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赤塚不二夫が生み出したギャグと多彩なキャラクターは、現在でも忘れられない存在感を放っている。


「ひとりで考え、ひとりで素晴らしい作品を生み出す人なんてそんなにいやしないよ。天才には必ずその天分を引き出す人間がいて、そいつのほうがもっとずっと天才だったりするんだ」

「自分が最低だと思っていればいいのよ。一番劣ると思っていればいいの。
そしたらね、みんなの言っていることがちゃんと頭に入ってくる。
自分が偉いと思っていると、他人は何も言ってくれない。そしたらダメなんだよ。てめぇが一番バカになればいいの」

平成20年(2008)8月2日、赤塚不二夫さんは肺炎のため逝去しています。享年72歳でした。
最後までギャグを忘れず その名言「これでいいのだ!!」は永遠に残っています。

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新たに「トキワ荘マンガミュージアム」としてオープンし、荘内の風景や資料を見ることができる(トキワ荘マンガミュージアム)

【参考資料・サイト】
・『赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ!』(文集文庫)
・PENプラス『いまだから赤塚不二夫』(CCCメディアハウス)
・フジオプロ:http://www.fujio-pro.co.jp/
・トキワ荘マンガミュージアム:https://tokiwasomm.jp/
・NHKアーカイブス「人物録 赤塚不二夫」

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