The Man of The Month
「今月生まれのこの人」の “心にきざむ言葉”
「志を得ざれば再び此の地を踏まず」 野口英世
野口 英世
(のぐち ひでよ)
(1876年11月9日生まれ)
人類はこれまで何度も「感染症・疫病の蔓延」という困難な局面を経験し、その壁を乗り越えてきました。そこには命を懸けて、感染症や細菌に勇敢に立ち向かった医療従事者の姿があります。日本人、野口英世もその一人です。
その生涯のほとんどを細菌感染症の解明と感染症治療法の研究にささげ、その不屈の魂と、情熱は、医学者・研究者ばかりでなく、すべての人々に感銘を与えるものでした。
大火傷を負うも、母親の深い愛情に
医学の道へ進むことを決心する
医学者・野口英世は、1876(明治9)年に福島県耶麻郡(現在の猪苗代町)の貧しい農家の家に生まれました。
1歳のときに英世は囲炉裏に落ちてしまい、燃えさかる火で左手に大火傷を負い、医師にかかることもできず、癒着してしまう事故に遭います。
母親のシカは「私の不注意で左手を火傷させてしまった。この子は農業を継ぐことはできないので、なんとしても学問で身を立てさせてやりたい」と、深い愛情を注ぎます。
教科書も買えないくらい貧しさの中、母は英世を小学校に入学させます。
勉強が思うように進まず、英世が弱音を吐くときでも「お前は、学問一筋に生きていくのだよ」とやさしく言い聞かせたのでした。
その母の言葉に応えるように、野口英世の成績は学校でも群を抜いていました。
15歳のとき、級友らが募金を集め、西洋医学者・渡辺鼎医師の手によって、左手の手術が行われ、英世の左手は少し自由を取り戻すことができたのです。
手術を受けた時に医学の素晴らしさに感動し、「将来は医者になろう」という決意が英世の中に芽生えてきます。
17歳の時に、英世は意を決し、故郷を離れ、上京をします。
「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」
高山歯科医学院(現・東京歯科大学)で雑用係をしながら、済生学舎(現・日本医科大学)で医学を学んでいきます。
学校での勉学に没頭し、時間さえあれば医学書を読み、その結果、人よりも早く医学試験に合格、20歳のときに早くも医師免許を取得します。英世の強い志しが、難関の試験の突破に結びついたのです。
ノーベル医学賞候補に挙がること3回
感染症との闘いに徹底し、実験を繰り返す
野口英世はここから細菌学を学び、細菌学医学者への道をまい進していきます。

英世の「研究ノート」には、その経過が詳しく記載されている。(資料:野口英世記念館)
細菌学への関心が強かったこともあり、1898年に東京・芝公園内に設立されていた『伝染病研究所』へ入所します。
「海外で研究をしたい」と翌年には留学を決意し、アメリカに渡ります。
大きな転機は、28歳で米国・ロックフェラー医学研究所に招かれたことです。そして「梅毒スピロヘータの純粋培養」に成功したのをはじめ、次々と目覚しい功績を示し、38歳の時にはノーベル医学賞候補に名前が挙げられるほどになりました。

米国・ロックフェラー医学研究所での研究に没頭する野口英世
1915年、40歳の時に、野口英世は一度だけ、日本に戻ってきたことがあります。
それは、母・野口シカからの
「はやくきてくたされ はやくきてくたされ いしよのたのみてありまする」
という手紙での願いに応えたものでした。
横浜港では多くの報道陣や恩師・友人が英世を出迎え、英世は母との再会を果たしました。
母シカは英世とともに過ごす時間を「まるでおとぎの国にいるようだ」と語っています。

母・野口シカと15年ぶりの再会を果たす(資料:野口英世記念館)
南米での「感染防止」に成功するも
新たな課題の発生
しかし、野口英世はその2か月後には、米国・ニューヨークに戻ります。
感染症との闘いの日々は「時間の猶予」をそう簡単には与えてくれないのです。
1918年、41歳の時に黄熱病が大流行していた中南米にロックフェラー研究所の派遣員として参加、当時『黄熱病』が大流行していた南米・エクアドルへ向かいます。
すぐさま原体を発見し「野口ワクチン」を開発、その広がりを抑えます。南米の黄熱病が落ち着きを見せるなど、世界が野口の功績に大賛辞を贈ったのです。

新聞などのメディアでも英世の功績は称えられた。(資料:野口英世記念館)
しかし、この野口ワクチンは、南米では効果を大きく発揮しましたが、アフリカの『黄熱病』には効かないことがわかります。
野口は自らアフリカへ飛び、ガーナに研究施設を造営し、今度は、アフリカの地で『黄熱病』研究に没頭します。
「教えに来たのではありません。習いに来たのです」
英世は自らを「黄熱病」感染の真っただ中に身を置き、その原因、治療法などの研究に邁進していきます。
「感染」というリスクに身を置き
ガーナの地で「黄熱病研究」に没頭する
黄熱病の死亡率は、30%~ 50%とされており、これはエボラ出血熱に匹敵し、非常に危険な感染症です。
細菌学の権威である野口の研究スタイルは、徹底して実験を繰り返し、気の遠くなるような実験パターンを経て、データを蓄積していく、というものです。
故郷を旅立ったときの
「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」
という言葉を常に自らの胸に刻み込み、並外れた集中力で研究に突き進むのです。
現在でも、医療医療従事者は常に「感染」というリスクを負いながら、病気に立ち向かいます。
その勇気ある姿勢には、私たちはただただ「感謝」しかありません。
言葉だけでは表せませんが、こうした医療従事者の勇気と努力があってこそ、私たち人類は、幾多の感染症のはびこる時代を乗り越えてこれたのです。
残念なことに野口英世も51歳の時に、自らがガーナで黄熱病に感染してしまいます。
殉職。
その壮絶な死は、野口英世らしいものといえるのかも知れません。
この野口ら医学研究者の研究もベースとなり、その後、アフリカの医学者マックス・タイラーによって「黄熱ワクチン」が開発されています。
ただし、全世界から、この黄熱病が完全に消え去ったというわけではありません。これが感染症なのです。
「絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ」
「人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない」

「野口英世記念館」全景 福島県・猪苗代
米国・ロックフェラー医学研究所の図書館には創始者ロックフェラー一世と並び、野口英世の胸像が飾られているそうです。
【資料】
野口英世記念館 https://www.noguchihideyo.or.jp/