「人生には何よりも『なに、くそ』という精神が必要だ!」

嘉納 治五郎

かのう・じごろう

(1860年12月9日生まれ)

柔道の創始者であり、講道館を設立した嘉納治五郎は、1860年(万延元年)12月に兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市灘区)の酒造業の家に生まれています。

 

お寺の庭先を借りて   わずか12畳の道場からスタート

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幼少の頃、治五郎は勉強の成績は抜群でしたが、身体も小さく、そのことにコンプレックスを抱いていたといわれています。

 

14歳の時、育英義塾に学びながら、その寄宿舎生活では、学科では決して劣らなかった治五郎でしたが、ひ弱な身体だったため、力の強い先輩から横暴な態度でいじめられ、悔しい思いで歯を食いしばる日々を過ごしています。

強くなりたいという思いが湧き上がり、以前聞いたことのある「柔術」に関心を持ち、知り合いを尋ねていきます。

 

そこで、紹介されたのが、柔術の師範である福田八之助です。はじめは、東京大学に通う、ひ弱なインテリ青年でしたが、福田道場でひたすら稽古に向かった結果、治五郎はメキメキ力をつけていきます。

19歳の時には、日本を訪問していたアメリカの第18代大統領・グラント将軍の前で、「乱取り」を披露するほどの腕前になっていたのです。

 

柔術の天神真楊流の師範代となり、さらに、起倒流(きとうりゅう)の達人と知られる山本正翁に会って弟子入りを嘆願します。

なぜ、いくつもの流派を学んだと言えば、それは、治五郎は柔術の様々な流派に、練習法や作法、技術、技などの違いがあり、それぞれに良さがあることに気づいたからです。

「それらの良さを採りいれ、統合した柔術を作れば、さらに強さが生まれる」と考えていたのです。

 

1882年5月、22歳のときに、柔術各流派のすぐれた点を集めて、現在の柔道の形に一本化するのです。これが現在の柔道の始まりです。

 

嘉納治五郎が、はじめて作った道場は、東京下谷の栄昌寺の庭に造ったモノでした。広さはわずか12畳で、門下生はわずか9人でした。これが後の講道館柔道の礎になるのです。

 

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勝って、勝ちに傲ることなく、  負けて、負けに屈することなく

 

柔道の修行によって、攻撃と防御の技を磨き、それによって、「勝負法」と「体育法」と「修身法」の三つを身につける。最終目的は人間としての「道」を学ぶこと。これが嘉納治五郎の目指した「柔道」でした。

 

弟子のなかには、「講道館四天王」と呼ばれ、入門者第1号である富田常次郎、映画・小説の姿三四郎のモデルといわれている西郷四郎、後にアメリカで柔道の普及に努め、10段位を贈られる山下義韶(よしつぐ)、天狗投げのワザを持つ横山作次郎がいたのです。

 

従来の柔術の技が、たた「投げる」ことを目指したのに対し、治五郎は相手の身体を崩して投げる「くずし」の研究を重ねていったのです。

そのため、各流派の対戦の際にも、講道館柔道の強さはひときわ目立ったのです。

入門者は年々増え、警視庁武道大会などで門人が活躍し、世の中に講道館柔道の名をとどろかせて行きました。

 

勝って、勝ちに傲ることなく、
負けて、負けに屈することなく、
安きにありて、油断することなく、
危うきにありて、恐れることもなく、
ただ、ただ、一筋の道を、踏んでゆけ。

 

嘉納治五郎は弟子たちにこう教えたのです。

 

治五郎が教えた「なあに、くそ!」の精神

  

嘉納治五郎は柔道家であると同時に、教育者としても大きな功績を残しています。東京大学卒業後、学習院を皮切りに、熊本の第五高等学校、東京の第一高等学校校長を経て、前後3回、26年にわたって東京高等師範学校の校長を務めています。

 

後に、東急電鉄の創設者となる五島慶太も、嘉納治五郎の教えを受けた一人で、こう記しています。

 

「高等師範学校で嘉納校長の修身科があったのですが、その講義の変わっていることは、はじめからしまいまで『なあに、くそッ』の一点張りで、ほかのことは何も説きやしない。これは柔道の方から来た不屈の精神の鼓吹で、勝っても『なあにッ』、負けても『「なあにッ』、どっちに転んでも『なあにッ』という訓えでした」

「私も最初は、へんなことをいう先生だなと思っていたが、これを1年間繰り返し聞かされているうちに、なるほどとだんだんわかり出してきた。しかし、体験的には、まだまだよくわかりきらなかったのですが、世の中へ出てみて先生の訓えが本当にわかった。どんなことにぶつかっても、この『なあに、くそッ』さえ忘れなければ、なんとかやっていける。嘉納先生の言葉はうそではなかった」

 

「精力善用」「自他共栄」を説き、日本人初のIOC委員となる

 

1889年、29歳の時に、治五郎は柔道の普及のため、初めてヨーロッパへ渡りました。

 

インド洋航海のその船の中で、小さな日本人をからかってきた外国人を、治五郎は柔道の技で投げ飛ばしています。その際に、投げ飛ばした相手のけがを防ぐため、治五郎は頭の下に手を差し入れて、頭部が強打することがないように、投げているのです。

 

「小さな者が大きな者を豪快に投げ飛ばす」、柔道が技の合理性に加え、相手を思いやる精神性も兼ね備えている、と評判になりました。

 

 

また、治五郎は教育課程の整備や、教授陣の刷新にも力を注ぎ、陸上競技や水泳など、スポーツも奨励しています。

 

1910年(明治42年)、治五郎のもとに、近代オリンピックの創設者であり、IOC(国際オリンピック委員会)会長であるクーベルタン氏から「アジアにおけるオリンピック運動の発展・普及のためにIOC委員に就任してほしい」との親書が届きます。

 

その頃、日本はまだ一度もオリンピックに参加したこともなく、「オリンピック」という言葉さえ知らない人も多かった時代です。クーベルタン氏からの異例の要請だったのです。

 

嘉納治五郎は柔道を通じて二つの大きな思想を広めます。

そのひとつは、「一人一人が善を行い自分の力を無駄なく発揮することで、善が世界に広がる。すべての力は世の中を良くしていくために使うもの」という『精力善用』です。

 

もうひとつは「己が栄えるには他も栄えなければならない」とする『自他共栄』という考え方です。

嘉納治五郎の生きかたはまさにこの「精力善用」「自他共栄」であったのです。

 

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嘉納治五郎は1938年(昭和13年)、カイロで開かれたIOC総会へ日本の首席代表として参加した帰途、バンクーバー発の客船「氷川丸」の船上で肺炎にかかり、船上で息を引き取っています。享年78歳でした。

 

余談になりますが、傑作探偵小説であるディック・フランシスの「競馬シリーズ」の第4作目である『大穴』では、主人公の探偵シッド・ハレーと相棒の間で「ジゴロ・カノ!」と叫ぶシーンが出てきます。それは「(悪者を)投げ飛ばせ!」という、秘密の合図となっているのです。

 

関連情報:講道館サイト

 

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