「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」

吉田 茂

よしだ しげる

(1878年9月22日生まれ)

外交官の道から、
68歳で「総理大臣」に

ふくよかな風貌に、葉巻をくわえた姿が印象的だった吉田茂は戦後の混乱期に、その強烈な個性で政界のリーダーとなっています。

吉田茂は明治11年(1878年)に東京・神田駿河台で生まれています。父は高知県で自由民権運動の闘士として名をはせた竹内綱で、吉田茂は生まれてまもなく、旧・福井藩士の貿易商・吉田健三の養子となっています。

大学卒業後、外交官・領事官試験に合格し、中国・奉天、ロンドン、パリに勤め、その後は駐スウェーデン公使、駐イタリア大使、駐イギリス大使なども務めます。

吉田茂の「政治家としてのデビュー」は決して早いものではありませんでした。第一次吉田内閣が誕生したのは、1946年、吉田茂が68歳のときです。自由党総裁であった鳩山一郎にGHQから「公職追放指令」が出され、その急場しのぎの「後釜」として吉田茂に白羽の矢が立ったのです。

その際に、吉田は総理総裁を引き受ける条件として「カネ作りは一切やらない」、「閣僚の選考に一切の口出しは無用」、「辞めたくなったらいつでも辞める」という3つの条件を出しています。

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「バカヤロー」という言葉を
残して壇上を降りる

吉田茂は「頑固者」でしたが、その一方では、その独特で辛らつなユーモアで、民衆とマスコミを引き付けた人でした。

寺内正毅が総理に就任する際に直々に秘書官への就任要請を受けますが「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」と、その申し出を断っています。

また、神奈川県・大磯の吉田茂の邸宅を訪れた訪問客に「居留守」を使ったところ、それがお客にバレてしまい、その時に言ったのは「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かなことはないだろう」。

1964年の宮中園遊会で昭和天皇から「大磯は暖かいだろうねぇ」と言葉をいただいた際には、「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答え、その場に笑いの渦を起こしています。

吉田茂の「頑固さ」を表わすのに、有名な『バカヤロー解散事件』があります。野党・西村栄一氏の質問に対して、「無礼なことを言うな!」と興奮した吉田茂は、最後に「バカヤロー」と捨てぜりふを残して壇上を降りてしまいます。内閣不信任案が提出され、自由党内の内紛もあり、可決されてしまうのです。

吉田茂はただ「ワンマン」だけでなく、後輩を鍛え上げ、「吉田学校」と呼ばれた中から、池田勇人、佐藤栄作らが育っていきます。

結局、吉田茂は第五次まで組閣、76歳まで総理を務めます。89歳の病床で「富士山が見たい」とベッドから身を起こしたのを最後に、大往生を遂げたのでした。

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