「自分が強くならなければ、勝つことはできない!」               ジェシー・オーエンス

ジェシー・オーエンス

"Jesse" Owens

(1913年9月12日生まれ)

「あきらめず、常に自分に勝つこと」を
教えられた中学時代

「褐色の弾丸」と称えられた美しきスプリンター、ジェシー・オーエンス。
彼は1935年のベルリン・オリンピックの陸上競技において、4つの金メダルを獲得しています。
男子100m、200m、400mリレー、走り幅跳びで、次々と世界記録を塗り替え、その速さは『褐色の弾丸』と形容され、美しいフォームは大観衆から『黒いカモシカ』と呼ばれたのです。

オーエンスは、1923年に米国アラバマ州の小さな町ダンビルの貧しい農家に生まれています。
家計を助けるため、運送会社、靴修理店、食料品店で働きながら中学校に通います。そのときに彼は、「走ること」を身体に刻み込んでいきます。

彼の天性の才能を見出した陸上部のコーチ、チャーリー・ライリーは、普通の練習時間には参加できない彼のために、わざわざ早朝練習の時間を設け、コーチしていきました。

ある競技会のレースは、大接戦でした。
「もうこれ以上、力は出せない」というところまでベストを尽くし、ゴールを過ぎてからも走るのをやめなかったオーエンスは。勢いあまって、壁にぶつかってしまいました。しかし、結果は僅差の2着。負けてしまいました。

がっかりしているオーエンスに、コーチのライリーは駆け寄ってきてこう言ったのです。
「おめでとう。君は今日、勝ったんだよ。だれに勝ったか、わかるかい?自分自身に勝ったんだよ!一度ならず、何度も、何度も、勝ったんだよ」

ライリーの指導もあって、オーエンスの才能は開花します。
クリーブランドのイースト工業高校時代には、彼の「速さ」は図抜けたレベルに達し、高校2年生で100ヤード走の世界新記録を樹立、走り幅跳びでも全米1位になっています。

しかし、当時のアメリカは、人種差別がまだ横行しており、「黒人」にとって過ごしやすい社会ではありませんでした。
オハイオ州立大学に進み、ますますその才能に磨きを掛けていたオーエンスも、遠征先の宿舎も、食事も、常にその生活は「差別」のなかにさらされていました。

そんな日々のなかで、オーエンスが常に胸に刻んでいたのは、中学時代のライリーコーチの言葉です。
「いいか。大事なのは、あきらめず、おごらず、自分に勝つことだ。明日も自分に勝って、来週も自分に勝っていけば、君は必ずオリンピックで勝てる!」

大観衆を魅了し、
ヒトラーの野望を打ち砕く

ベルリン・オリンピックは、別名「ヒトラーのオリンピック」とも呼ばれ、ヒトラーの人種差別主義と権勢を喧伝するためのものでもありました。
しかし、青年オーエンスにとって、そんな権力者の意図も眼中にはありませんでした。

100m決勝のレースに臨んだオーエンスは、
「ただ、8年間の努力がこれからの10秒間に集約されることしかアタマの中にない。ヒトラーのことなど気に掛けていられない」と、後にその心境を語っています。

100mで10秒2、200mで20秒7、走り幅跳びでは8m06の記録を出し、オーエンスは次々と金メダルを首に掛けていきます。400mリレーでも、彼は仲間の白人選手と力を合わせて、39秒8の世界新記録で圧勝します。前人未到の4つの金メダルを掲げたのです。

ヒトラーは黒人の勝者とは握手しようとしませんでした。
しかし、その事実が、多くの観衆の目に奇妙に映り、かえって「人種差別の明らかな不合理性」を認識させてしまったのです。

それは、「強く、美しい心をもった勝者」、が独裁者の「醜悪な野望」をさわやかに、そして見事に打ち砕いてしまった瞬間だったのです。

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一人の少年の胸に刻まれた
オーエンスの言葉

ただ、オリンピックで活躍した後も、米国に帰ったオーエンスは「世界の陸上界の英雄」になりましたが、差別はすぐにはなくなりません。
後に、オーエンスはこう語っています。
「人がどうであろうと、だれが何と言おうと、自分が力をつけ、力を発揮していくことである。まず、自分が強くならなければ、勝つことはできない。人生こそ、本当のオリンピックなのです」

50歳を過ぎて、あるとき、オーエンスは、陸上選手を目指す多くの少年たちの前で、こう言いました。
「楽しみなさい」
まだ、背が小さく、痩せていた9歳の一人の少年が、オーエンスのその言葉をしっかりと胸に刻みつけました。
その少年こそ、ベルリン・オリンピックから48年後のロサンゼルス・オリンピックでオーエンスの偉業に並ぶ4つの金メダルを掲げたカール・ルイスだったのです。