「まずは土地と畑の整備である」

加藤 清正

かとう きよまさ

(1562年6月24日生まれ)

合戦での活躍が認められ
肥後領主に抜擢される

「虎退治」でもその名を知られる加藤清正は、永禄5年(1562)に尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれています。

清正は豊臣家と遠縁であったことから、9歳の頃から豊臣秀吉に仕えます。初陣がいつかはわかっていませんが、20歳のときには豊臣秀吉が明智光秀を打ち破った「山崎の合戦」に出陣。21歳のときに出陣した「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」では敵の大将である山路正国を討ち取るといった目覚しい活躍をみせ、「賤ケ岳の七本槍」の一人として名を挙げられ、3000石の所領を与えられています。

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その後も順調に成長した清正は秀吉公からの信頼もますます厚くなり、27歳の時には清正はそれまでの侍(さむらい)大将から一気に肥後(熊本)19万5000石の領主に任命されています。

当時の肥後藩は土豪たちがひしめく統治の難しい国柄で、長引く合戦で国内は荒れ果てていました。この地を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」というほど荒れていたのです。

ここで加藤清正は武力だけでなく、意外な才能を発揮するのです。

肥後の国に入国後、領内各地を見て回った清正は、まず土地や田畑の整備に全力を上げるよう指示し、河川の改修など治山治水に努めます。そして、農民と一体となって「新田開墾」に取り組んだのです。今で言えば、まず経済のインフラ整備から取り組んだ、ということになるでしょう。

経済立て直しに成功し
地元での人気は高い

さらに、肥後の特産品を使って「南蛮貿易」を開始。積極的な領地改革を進め、国を豊かにし、経済の立て直しに成功するのです。現在でも、地元・熊本では「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」という言葉があり、清正の善政に対する尊敬の念は強いといわれています。

秀吉の命により朝鮮出兵した際に「虎退治」のエピソードが生まれます。かわいがっていた部下の一人が猛虎の一群に襲われ、食い殺されたことを知った清正は、烈火の如く怒り、虎の群れを襲撃。苦闘の末に見事「あだ討ち」を果たした、ということなのです。

清正の運命を大きく変えたのは、秀吉の死後、同じ豊臣家臣であった石田光成、小西行長との「不仲」が表面化したことです。溝は深まり、そのため「関が原の戦い」では、清正は徳川方(東軍)に参加し、勝利に貢献し54万石の大名に上りつめます。

ただ、清正の豊臣家への忠誠心は消えていませんでした。慶長16年(1611)には、二条城で秀吉の遺児である豊臣秀頼と徳川家康を会見する場を設けているほどです。しかし、この会見から地元・肥後へ帰る途中、清正は倒れ、50歳で死んでしまいます。この死因については「毒殺説」もあるほどの急死だったのです。

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