「埋蔵金伝説」というロマン(3)

心ひかれる『埋蔵金伝説BEST5(西日本編)』

今回は西日本各地に伝わっている埋蔵金伝説の中から
「心ひかれる埋蔵金伝説BEST5」を挙げてみます。

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第1位 「表は潜り上手の漁師、裏は海賊」と二つの顔を持つ男

■海猫小多八の埋蔵金(兵庫県)

江戸時代、瀬戸内海には多くの海賊が出没していたと言われています。
淡路島・由良の東側の紀淡海峡の砂州が伸びる細長い島、成ケ島を拠点としていた海賊が、海猫小多八です。

江戸時代の後期、1818年、瀬戸内海で小判と金の地金を積んだ「竜王丸」が沈没するという事故が起こりました。
竜王丸は西国諸藩(九州の有力藩主)が参勤交代などに出向く際に、その御用船として活動していた船ですが、沈没した際には、小判5000両、金地金4万5000両を積んでいたそうです。

竜王丸が沈没した海域は比較的浅く、船主は「引き揚げが可能」として、淡路島の漁師の中でも「潜りではピカ一」という技術を持つ、海猫の小多八(こたはち)に助け求めます。
実は、この小多八、表面では「漁師」を名乗っていますが、裏の家業は「海賊」の首領なのです。

小多八はその依頼を断り、船主は途方に暮れてしまいます。
小多八は、表面では依頼を断り、その裏で、ひそかに沈んだ竜王丸から小判、金地金を引き揚げ、それを自分の占有海域に隠した、と言われているのです。そこから、この「海猫小多八の埋蔵金」が生まれてきたのです。

明治の中ごろ、旧家から出た古文書に、「文化年間に西国諸藩の御用船・竜王丸が黄金を積んだまま沈没」と記されているそうです。

しかし、小多八が実際に竜王丸の財宝を引き上げたのか、5万両ともなれば、すべてを本拠の淡路島近くまでに運び入れるのは困難で、竜王丸が沈んだ安芸・伊予の間の芸予諸島海域に隠したのではないか……という説もあります。
また、小多八は、その後、京の町で小判を使った際に、その小判が竜王丸に積んであったものの特有な刻印があったことから、身を拘束され、その後、自害したという説も残っています。いずれにしても、埋蔵金は瀬戸内のどこかに眠っているのでしょうか?

第2位 「悲劇の豪商」が最期に残した250万両

■伊藤小左衛門の埋蔵金(長崎県)

伊藤小左衛門(いとう・こざえもん)は、江戸時代に、九州・黒田藩の地で、その卓越した商才を発揮して財を築いた豪商です。

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黒田藩の御用商人としての地位を得ると、海外との貿易の仲立ち役として、藩の財政強化に貢献、その勢力を本拠の博多から長崎一円に拡大していきます。鎖国政策が強まる中、ポルトガル船2席が来航禁止令を破って長崎港に来港、「通商を求めて」威圧行為に及んだ時には、ポルトガル船焼き払いのための稲わらを一夜にして集め、交渉を無事決着させるために尽力したと伝えられています。

長崎で深刻なコメ不足が起こった際にも、東北から買い付けたコメを九州に運び入れ、長崎奉行からの信認も厚くなります。
こうした官からの信頼というバックボーンを活かし、小左衛門は鉄類、紙類の売買や銀山の経営にも従事、廻船問屋としては、特産品の白磁「イマリ」を明経由で欧州に輸出し、マイセン窯にも多くの影響を与えたと言われます。その一方で、中国・朝鮮との密貿易による利益もあげていたと言われて、小左衛門は一説では「海賊」とも呼ばれ、その身代は七万貫とも八万貫ともいわれる大資産を持つと噂されていました。

「天井にギヤマンを張り、その中で金魚を飼って見物するほど」という、小左衛門の政商としての羽振りのよさに、当然「敵」も生まれます。寛文7年(1667年)、柳川藩に「伊藤小左衛門の密貿易」を訴え出る者が出てきます。嫌疑は「ひそかに武器の材料となる鉄を、外国に売っていた」というものでした。

小左衛門自身はもとより、一族すべて、配下の使用人に至るまで270名も捕えられてしまいます。このときに、小左衛門はその財産の一部、250万両を壱岐島あたりに隠したと言われているのです。

歴史学者によれば、小左衛門の密貿易は「私利私欲のためでなく、黒田藩との連携で行われていたこと」という説が発表されており、幕府からの追求を避けるため、黒田藩はやむなく小左衛門を身捨てるしかなかった、と言われているのです。
結局、小左衛門は磔(はりつけ)の刑により絶命、地元では「悲劇の豪商」と今でも呼ばれています。

250万両もの埋蔵金は、玄界灘に浮かぶ壱岐島、猿岩に重大な手掛かりがあると言われていますが、発見はされていません。
なお、壱岐市には「お参りするとお金持ちになる」と言われている「伊藤小左衛門地蔵」があり、地蔵の視線の先に埋蔵金があるという言い伝えが残っています。

第3位 「英国が贈った超高価な王冠が海底に眠る」

■ナイル号の財宝(山口県)

比較的新しい、大正時代の出来事だが、資料は乏しいのが「ナイル号沈没事件」の埋蔵金です。

大正3年(1914年)5月、英国船「ナイル号」(6700トン)は濃霧のため岩礁に衝突し、祝島沖に沈没したのだが、このナイル号には、大正天皇即位のお祝いのために英国王室が送った時価1億7000万円相当のダイヤの王冠と首飾りが積み込まれていたのです。

このころの日本と英国の関係は、1902年に発効した「日英同盟」による同盟国で、この後、1914年8月にはともにドイツに宣戦布告し、「第一次世界大戦」へ突入していく前夜の出来事だったのです。英国は、同盟の絆を示すために、豪華な王冠・首飾りを日本に送ったのでした。

祝島は、波高い周防灘の東端に位置する周囲12キロの孤島で、古来、行き交う船の航行安全を守る神霊の鎮まり給う島として崇められ、航海の無事をひたすら祈ったということからその名がついた「祝島」。それだけ、この海域の航行が危険をはらんでいた、という裏返しかもしれない。

これまで、何度か船の引き揚げに挑戦した人もいるらしいが、速い潮流に阻まれ、作業は難航。積まれていた財宝は今でもまだ海底に眠ったままらしい・・・・・・。

第4位 「政権へ逆らい、反乱のために蓄えたもの」

■藤原純友の埋蔵金(香川県)

日本史の授業の中でも、西暦939年に、瀬戸内海沿岸で起きた『藤原純友(ふじわら・すみとも)の乱』の話が出てきます。同じ年に、関東で起きた『平将門の乱』と合わせ、朝廷に対する反逆事件『承平・天慶の乱(しょうへい・てんぎょうのらん)』と呼ばれています。ともに、朝廷の権威に抵抗する武装勢力が同時に発生したという驚異的な事件であり、公家政権の中央集権的な統治力の衰えを象徴する出来事でもありました。

藤原純友は、藤原一族の「はぐれ者」的な存在で、役人として伊予に赴任し、瀬戸内海を航行する船を海賊から護る国司(地方長官)に任命されていました。しかし、日ごろから政権の悪政、海上交通の自由を奪おうとする方針に不満を募らせていた純友は、任期が切れ、帰還命令が出たにもかかわらず、その後も、伊予の地から離れませんでした。

乱を起こす以前から、貧窮する農民や浮浪者たちを集めて、集団で喜多郡の郡司倉庫から大量の米を略奪し、浮浪者たちに分け与えていました。純友は、その後も略奪行為を繰り返し、豊後水道に浮かぶ日振島を拠点として、ついに強大な海賊集団に成長したのです。

そして、藤原純友はその略奪によって稼いだ黄金などを、99個の甕(かめ)に入れて、瀬戸内のある島に隠します。これが「埋蔵金伝説」の発端になっています。
来るべき、政権に反旗を翻す日々を純友は予期し、備えを蓄えていたのでしょうか?

ただ、藤原・平安時代には、精錬技術が乏しく、蓄財できるほどの金は流通していないこともあり、財宝と言っても、黄金だけでなく、古銭・経典など様々なものが混じっていたのでは・・・・・・と推測されています。

天慶3年8月、藤原純友400艘の船で、伊予・讃岐を攻め、さらに九州に侵攻しますが、翌年早々には鎮圧軍の厳しい攻勢に合い、しだいに劣勢へ。6月に囚われの身となり、獄中で死を迎えています。

第5位 「おばあちゃん、何か出てきたよ!」と裏の畑で声が・・・・・・。

■赤磐市「やもん屋敷」の埋蔵金(岡山県)

とても身近で、出たてホヤホヤのニュースから、ひとつ挙げておきたい。
2010年7月18日、岡山県・赤磐(あかいわ)市の農業・青山邦芳さん方の裏庭で、邦芳さんが重機で農道の整備を行っていたところ、埋まっていた泥だらけの壺の中から、銅銭など約6000枚が出てきたそうです。

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「おばあちゃん、お金がざくざく入った壺が出てきた!」
孫の声に驚いて、青山義子さん(82歳)が裏庭に駆けつけると、高さ30センチ、胴の最大径約25センチの壺が転がっており、小さな口から中を覗くと、素人目にも相当な年代物とわかる銅銭が、ぎっしり詰まっていたそうです。

祖母の青山義子さんは、2年前に他界したおじいちゃんが生前、よく口にした言葉を思い出したそうです。
「ここは昔から『やもん屋敷』って呼んどる場所でな、宝が埋まっとんじゃ」――。

赤磐市教育委員会が調査したところ、、壺は16世紀前半ごろの備前焼(高さ30センチ、胴径25センチ)で、中にぎっしり詰まっていたのは、開元通宝(唐)や政和通宝(北宋)、永楽通宝(明)などで、中世に大量に大陸から渡ってきたものと推測されると言う。

 「埋蔵時期は恐らく戦国時代。今の貨幣価値に置き換えるのは難しいが、ごく大雑把に言って50万〜120万円位。目的は天災や戦乱を避けるための備蓄か、神仏への地鎮ではないか」と市教委は推測しているそうです。

青山家がある石地区は、赤磐市北部の丘陵地帯にある小集落。赤磐郡誌によると、近くに飯山城という中世の城跡があり、この集落も、城の周囲に点在する防御拠点の一つだったそうです。
青山家に系図や古文書はなく、先祖にそんな人物がいたかどうかは不明。また、おじいちゃんが言っていた「やもん屋敷」というのが土地の開拓者や発展に貢献した人を指すものなのか、「屋門」という言葉から来るものなのかもはっきりしません。それでも、この地区周辺には、まだいくつかの壺が埋まっている可能性も高く、ロマンを感じさせるものがあります。

<そのほかの埋蔵金伝説>

西日本には、このほかにも

■滋賀県 明智光秀の埋蔵金

「死んだのは光秀の影武者だった?」

■兵庫県 尼子氏の埋蔵金

「孤立し、最期を悟り埋め込んだ軍資金」

■香川県 村上水軍の埋蔵金

「瀬戸内の大海賊が残した金銀財宝の行方」

■香川県 鳴門茂衛門の埋蔵金

「手下の反乱で、謎となったしまった財宝」

■熊本県 天草四郎の埋蔵金

「のちのキリシタンのために残した資産」

などが残されています。

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