日本の『スゴイ親父』! 仕事に向き合う姿勢が半端じゃない!

ただ"愚直に"・・・、80歳を過ぎて、なお歩みを止めないことの大切さ

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日本が世界に誇れるものってなんでしょうか?

なでしこジャパン、長寿、日本食、ものづくり、勤勉さ・・・、「政治」以外の分野であればソコソコ出てきますが、中でも、多くの仕事に対して、真面目に取り組んで行く人々の姿は、やっぱり「誇り」としていいのではないでしょうか。ここでは、80歳を過ぎてなお、自らの仕事に愚直に向き合って、歩みを止めない『日本のスゴイ親父』を紹介したいと思います。

 

清流に生きる”魂のふなびと” ―― 求广川八郎さん
ただ一人のための仕事を積み重ねていく美しさ 

九州は熊本県・球磨村の楮木(かじき)地区。9世帯、20人ほどが住む、この小さな集落の境目を流れる「球磨川(くまかわ)」が、船頭・求广川八郎(くまがわ・はちろう)さんの仕事場です。

今年で85歳になる八郎さんは“球磨川最後の渡し”と呼ばれる渡し船『楮木(かじき)の渡し』の、たった一人の船頭さんです。

船着場から、対岸にある肥薩線・瀬戸石駅までの川幅は約80メートル、八郎さんが力強く漕ぐ櫓(ろ)で、ゆっくりと進む渡し船。川面に朝やけに染まる早朝から、最終列車の時間まで、八郎ジイは、渡し場で「お客さん」が現れるのを待ちます。

一日にこの渡し船に乗る人が、高校へ通学するために利用する高校生一人、というときも多いそうです。それでも、八郎さんは30年以上もこの渡し船を守り、夏のカンカン照りの日も、冬の寒風吹きすさぶ日も、船着き場の小屋でじっと仕事に備えて待ち続けます。

世の中の何万人、何十万人のための仕事もありますが、「一人のためだけの仕事」もあります。求广川八郎さんの櫓を漕ぐ姿を見ていると、その仕事の確かな価値が伝わってきます。

昨年、映画プロデューサーの小山薫堂さんが、熊本県の観光プロモーション・フィルムとして製作した映画『くまもとで 待ってる』の中で、この求广川八郎さんの仕事も紹介されています(映像も、音楽もすばらしい作品です)

奥さんから渡されたお弁当に、「行だてきます」と答える求广川さん。急な石階段を注意しながら降りてくる姿・・・。立ち姿、所作、ひとつひとつに、年輪を積み重ねたプロの仕事人の“味”を感じさせてくれます。

 

ミクロの鉄人 ―― 清田茂男さん
「マニュアルがない世界を怖がっちゃいけません!」 

日本の最先端ハイテク製品を、町工場のモノづくり技術が支えている、という構図は珍しいものではありません。

東京・北区上中里の有限会社・清田製作所もそんな町工場のひとつです。

83歳になる清田茂男(きよた・しげお)さんのところには、毎日のように日本を代表するエレクトニクス企業や、自動車メーカーからの「試作の依頼FAX」が飛び込んできます。そして、国内だけではなく、海外の企業からも引き合いが来ます。

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清田さんが製作しているのは『コンタクトプローブ』といって、超LSIや極小プリント基板、パワー半導体などの性能を検査する「微小な針」と呼ぶもの。検査装置の先端で、次々と生み出されてくる最先端のエレクトロニクス部品を、全量検査していきます。

「私のところで作っている物は、いわば、みなさんの見えないところで働く奴なんです。でも、その微細加工技術から生まれたプローブがなければ、テレビやパソコン、電気自動車、携帯電話も動かないんですよ」と話します。

清田さんの町工場は、量産製品は作っていません。その前段階の試作・ベース製品を「開発」するのが大きな役割です。その技術レベルは世界のトップを走っており、『日本ものづくり大賞』を受賞していたり『第30回発明大賞』『科学技術振興功績賞』も受賞しています。

清田さんに付いたあだ名は「ミクロの鉄人」、「眼らない鉄人」・・。清田さんの仕事に取り組むその姿勢は、高校の「政治・経済」の教科書に載ったこともあります。

清田さんの技術は、すべて「現場」で得られ、磨かれてきたものです。北海道の入舸(いりか)小学校を出た後、上京し、自転車工場の丁稚奉公に入り、その後、当時、最先端の精密加工技術を有していたハーモニカ製作会社に呼ばれ、腕を磨いています。

36歳で独立し、レコード針、カメラの露出計の針などの製作を経て、現在のコンタクトプローブに行きついたと言います。

「清田のところへ持っていけば、あいつは絶対断らないし、なんとか仕上げる。だから、いつも人のやらない、新しい仕事が向こうから飛び込んできた」と言います。

いまや、大学の研究室で指導したり、日本のハイテク研究の先端と言われる産業技術総合研究所と共同研究により特許も多く取得している。

清田さんの行動の基本は「見たり、聞いたり、試したり」だと言います。「人間一人が、自分の力で知ることができるのはそんなに多くの量じゃない。自分で覚えられることには限界があります。だから、私の基本は、見たり、聞いたり、試したり、なんです」と言う。

「設備がないとか、人材がいないとか嘆く前に、身の回りを見まわしてみることです。役に立つものはいっぱいあるし、ウチのような町工場からでも、自分の場を見つければ、人の腕や能力はドンドン高まっていきます」

「マニュアルがない世界を怖がっちゃいけません。自分がマニュアルになる、と考えれば先へ進めるんじゃないですか」

「ひとつに絞るということは格好いいかもしれませんが、ウチは開発を任された時には3つくらいの答えを持っていきます。ひとつでは“押しつけ”になってしまうからです。だから、社員にいつも言っているのは『答えはひとつじゃないよ』ということです」

清田さんは、いまでも精査顕微鏡の前が“自分の場”だと話します。愚直に、愚直に前へ進む人なのです。

(参考:講談社刊『愚直に勝る天才なし』清田茂男著)

 

ひたすらに”究極”を追い求める名工 ―― 城 純一さん
「客の使いたい竿がオレの作りたい竿」

ベテランの釣り人をして「たたの釣り竿ではない。新たな創意にあふれ、その完成度はまさに芸術!」と言わしめる、“竿づくりの鉄人”が、和歌山県橋本市の製竿師(せいかんし)、城純一(じょう・じゅんいち)さん、86歳です。

橋本市は、釣りの中でも「知的な駆け引きが必要」とされるヘラブナ釣りの竿の生産で日本一の町です。

釣り竿と言えば、いまやカーボンなどの新素材が主流になっていますが、ヘラブナ釣りの竿は、ヘラブナとの微妙な動きを手で感じることのできる「竹製」が最高とされているのですが、城さんは、その『紀州ヘラ竿』の第一人者で、“現代の名工”にも選ばれています。

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城さんの仕事場は、6畳ほどの板張りの部屋で、いつも青い作務衣の姿で、椅子に座っています。

銘は『魚集(ぎょしゅう)』。

竹の竿に、曲がりが出ず、狂いが生じさせないカギは「火入れ」にあるとされますが、城さんは誰もが認める卓越した「火入れ技術」を持っており、「その銘のように、城さんの竿は、矯(た)めているだけで、ヘラブナが集まってくる」とも言われます。

城さんが、製竿師の道へ入ったのは、12歳のとき。

「その時代は、みな食べるのに精いっぱいで、竿師になりたかったわけじゃない」と城さんは言います。

徒弟制度が厳しく、しばらくは紀ノ川の河原で、磨き砂を使っての“竹磨き”ばかりで、技術は、師匠や先輩の仕事を見て覚えるしかなかったという。目を盗んでは、竹の切れ端を集めてヤスリがけを覚え、先輩たちが昼寝をしている間に、残りの火でクズの竹をあぶり、“火入れ”のワザを体得していったそうです。

24歳で独立。城さんの竿づくりは、従来からの高度な伝統の技術に加え、独自に編み出した創意・工夫が凝縮されています。

従来は、弱火で何度かあぶって竹をまっすぐにしていましたが、そこを2?3倍の強い火力で一気に仕上げることで、竹の繊細な感触と、大物を釣った時でも歪みの出ない強靭さを持たせることが可能になったのです。竿を握りやすいように竿尻から緩い曲線を描いて籐を巻き上げていく『かぶら巻き』や、鋭い刃物で竹の皮を剥ぎ、磨きによって竿の光沢を高める『口巻き磨き』など、何度も鍛錬と試行を繰り返し、新しい技術が生まれたのです。

あるベテランの釣り人は「“魚集の竿”にふさわしい釣り人になるのが目標」と言います。

いまなお「客の使いたい竿がオレの作りたい竿」と話す城さんは、次の高みに挑み続けています。お弟子さんたちの育成にも多くの時間を割いています。

(参考:毎日新聞・和歌山県地方版、朝日新聞・地方版)