「未来だけは、いやにはっきりとした姿で、私の眼の前にある」

土方 歳三

(ひじかた・としぞう)

(1835年5月31日生まれ)

戦乱の幕末時代に、新撰組の「寡黙で、冷徹な鬼副長」として存在感を示した土方歳三。縦横無尽の剣の使い手で、実戦には滅法強かったといわれています。その一方では、洋装の写真を残していたり、合理主義に徹した理論派とも言われ、その人生は波乱に富んだものでした。

洋装もきちんと着こなした土方歳三

 

幼少期のあだ名は「バラガキ」
大胆不敵で、度胸十分の少年だった

土方歳三は、天保6年(1835年)5月31日、武蔵野国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農の家に10人兄弟の末っ子として生まれています。

石田村は、多摩川と浅川が合流する近くに位置しており、歳三の生まれたころの石田村は、水田の広がる中に15軒が点在する小さな村でした。
村のすべての家が「土方(ひじかた)」という苗字で、それぞれの家は、家号や呼名で呼ばれていました。 歳三の生まれた土方家は、村では「大尽」と呼ばれていましたが、父(義諄)は、歳三の生まれる数ヶ月前に病気で亡くなってしまい、母も歳三が六歳のときに結核で亡くなってしまったため、歳三は二番目の兄であった喜六と、その妻・なかによって育てられました。

ただ、幼少期の歳三が暗かったわけではなく、いつも元気いっぱいで、付けられたたアダ名は「バラガキ」。
さわると傷がつく「荊(いばら)」のように乱暴なガキ、という意味を表しており、幼い頃から大胆不敵で、度胸あふれる少年だったそうです。

17歳の時に松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋に奉公に出されますが、すぐに店主と喧嘩してしまい、自ら「商人の生活が合わないこと」を悟ります。

土方の実家で作られていた打ち身の薬「石田散薬」

実家が製造していた、打ち身に効くという「石田散薬」という薬を行商して歩いていた歳三は、行商のかたわらでは、各地の道場に飛び込んでは剣術修行するという生活を続けていました。
姉の嫁ぎ先である佐藤彦五郎が,日野に「佐藤道場」を開いたのをきっかけに、「天然理心流」の剣術を習い、メキメキと腕を上げていったのです。

“将軍警護“の募集に応じ
近藤勇、沖田総司らと京都に

「天然理心流」の佐藤道場で、歳三が知り合ったのが、近藤勇、沖田総司、井上源三郎、山南敬助といった後に新撰組で行動を共にする仲間たちでした。
 
剣術修行に熱中していた28歳に時に、転機がやってきます。
「14代将軍・徳川家茂が京都に上洛するため、警護の志氏を持つ浪士を募る」との話が持ち上がり、それを聞きつけた歳三や近藤らはさっそくこの募集に参加したのです。

土方歳三のほか、近藤勇、山南敬助、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、原田左之助、井上源三郎、馬場兵助、中村太吉郎、沖田林太郎・・・など。各地から集まった浪士230名ほどが中山道を通って、京都に上ります。

しかし、当初の目的とは違って、京都に着いてみると、将軍警護の役割ではなく、「この浪士組を尊王(皇室を尊ぶこと)の義軍にする」という発表があったため、大半の浪士は江戸へ帰ってしまい、残ったのは13名ほどでした。

後に「新撰組」を結成する浪士たち

当時の京都の町は、長州をはじめ諸国から集まった、主張の異なる浪士たちが入り乱れた物騒な町でした。
土方歳三、近藤勇らは、当初は『壬生浪士組』と呼ばれ、倒幕派との武闘に明け暮れていました。
歳三の剣は行商中に学んだ様々な流派のクセが混じっていましたが、実戦では縦横無尽で、滅法強かったといわれています。

「喧嘩ってのは、おっぱじめるとき、すでに我が命ァない、と思うことだ。死んだと思いこむことだ。そうすれば勝つ」
それが歳三の剣法でした。

「新撰組」結成へ、
自ら険しい戒律を作り、粛清の手段も

壬生浪士組の始め頃の編成は、局長に芹沢鴨(せりざわ・かも)、新見錦(にいみ・にしき)、近藤勇、副長に土方歳三、山南敬助、副長助勤に沖田総司、永倉新八、井上源三郎ら十四名でした。赤地に白く「誠」の字を染め抜いた旗を先頭に隊列を組んで、会津藩の軍勢と一緒に行動しており、 この時「浪士組」は「新撰組」と名付けられたのです。

京都・壬生に設けられた「新撰組屯所」

ただ、この頃の近藤や土方、井上たちは、手当てが少なくお金に困っていたのですが、一方で、局長の芹沢や新見は、次第にわがままになり、大きな商人から無理に金を借りたり、乱暴したりすることが多く、悪い噂が多くなりました。
そこで、歳三は『陣中法度』、『局中法度』など新撰組の厳しい規律を作り、厳格にそれを守ることを求め、それに従わず、商人にカネを無心したり、乱暴狼藉を働く幹部の芹沢鴨や新見錦らを容赦なく粛清したのも歳三でした。

その後の新選組は、局長近藤勇、副長土方歳三となり、真面目にその役割を守り、京都の市中の警備にあたりました。

歳三は、近藤勇に向かって 
「あんたは総師だ。生身の人間だと思っては困る。おごらず、乱れず、天下の武士の鑑であってもらいたい」と求めました。

新撰組・局長をつとめた「近藤勇」と愛刀「虎撤」

 

「池田屋事件」で勢いを増した新撰組
京の町で怖れられる存在に

「池田屋事件」で倒幕派の肥後藩士、長州藩士を討ち、手柄を上げ、新撰組の名は京都に知れ渡ります。
近藤は愛刀“虎徹”をふるう近藤勇、新撰組ナンバー1の剣の使い手・沖田総司、なかでも「あの土方歳三が、役者のような顔で馬に乗って隊士を従え、鋭い眼で市中の見廻りをしているのが一番恐ろしかった。土方が来ると浪士は、露地から露地へ、夢中で逃げたものだ」と、ささやかれていました。

京の町で怖れられる存在となっていった新撰組

しかし、厳しさの反面で、土方歳三は同士からは「性質英才にて剛直だが、年の長ずるに従い温和で母のように」と慕われていました。
「常に冷静沈着だが、その心は広く、ゆとりがあった」という評もありました。

局長の近藤勇は、毎日のように守護職や各藩の役人との会合で外に出ることが多く、土方は、留守をあずかって、隊士に剣だけでなく大砲や鉄砲など西洋式の訓練をしています。

「一日過ぎると、その一日を忘れるようにしている。過去はもう何の意味もない」と歳三は言います。

時代は大政奉還へ動き、江戸へ向かう
官軍に押され、最後の激戦地、箱館・五稜郭へ

時代は大きな潮流が起こっています。
長州藩、薩摩藩、土佐藩などが手を結び、倒幕へ傾いていき、幕府の勢いは日に日に衰え、新撰組もその流れには逆らえません。
大政奉還の時を迎え、「鳥羽伏見の戦い」で幕府軍は敗れ、新選組の面々も傷つき、慶応4年(1868)1月16日、大阪から富士山丸で江戸に帰ってきました。

甲府城・勝沼の戦いで討幕派の大軍に敗れ、局長・近藤勇はとらえられ、打ち首の刑に処せられ命を絶たれます。すでに、沖田総司も結核で命を落としていました。新撰組の仲間が次々と命を落としていく中で、歳三は冷静さを保っていましたが、明日をもしれぬ運命と闘いつつ、しだいにその未来を感じざるを得ませんでした。

「未来だけは、いやにはっきりとした姿で、私の眼の前にある」

敗走する中で、歳三は、「これからは刀だけでは戦さができない」という現実をつきつけられ、「勝てば官軍、負ければ賊軍」といわれたように、その勢いの差は歴然としており、歳三も会津へ追われ、北海道・箱館(函館)へ追い込まれていきます。

榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流し、箱館・五稜郭を最後の砦として陣を構えた時には、時代はすでに「明治元年」と移り変わっていました。

最期の決戦の地となった箱館・五稜郭

総裁には榎本武揚、副総裁・松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介、土方歳三は、陸軍奉行並という役に選ばれ、多勢の官軍との戦いに備えていきます。

寒い冬の間は、官軍も北海道を攻撃できず、四月、江差方面に上陸して、箱館への攻撃を開始しました。土方歳三は、江差方面から来る敵に備え、江差山道、二俣、台場山に陣を築いて、敵を迎え撃ち、五稜郭に帰ってからも、四方から箱館へ押し寄せる敵と戦いましたが、官軍にじりじりと押さ続けられます。

「武士よりも、武士らしく」
この言葉を土方は信念にしていました。局長だった近藤勇が斬首の刑に処せられたこともあり、自分から降伏することを拒み、新撰組の誇りを捨てることなく、最後まで戦うことを選んだの、と言えるのかもしれません。

 

市村鉄之助を戦地の外へ
2か月後に届けられた手紙と写真

歳三は、小姓である市村鉄之助をとても可愛がっており、「すこぶる勝気、性これまた怜悧」と評価していました。
降伏の時が日に日に迫る中、歳三は遺髪と写真を市村鉄之助に預け、歳三が幼き日々、剣道修行に打ち込んでいた日野の家族(佐藤彦五郎)に届けるよう」命じます。鉄之助は歳三とともにこの地で討ち死にする覚悟で来ているので、別の者に命じてほしいと言います。
それに対して歳三は「断るとあらば、今この場で討ち果たす」と言い放ちます。

そのまなざしは鋭く、気迫に圧倒された鉄之助は、外国の船に乗り込み、五稜郭をあとに去ります。「まだ若い鉄之助を死なせたくない」という思いが歳三にはあったのです。

その翌日、最後の戦のために弁天砲台へ向かうために馬にまたがって指揮を執っていた際に、銃弾が歳三の腹部を貫きます。「世話になった、すまぬ」と一言を残して、歳三は息を引き取りました。
35歳の死。大きな時代の波の翻弄された土方歳三の生涯が終わりを告げたのです。

現在の五稜郭公園内に建てられている土方歳三の像

2カ月後、明治2年7月、日野の佐藤家へ、みすぼらしい姿の一人の少年が尋ねてきました。家人がいぶかって尋ねると、持っていた包みの中から一枚の写真と細い紙片を差し出しました。
彦五郎がそれを見ると、その手紙には「使いの者の身の上、お頼み申す」と書いてあり、歳三の写真が一枚、入っていました。この少年こそ歳三の言付けを守り、北海道から苦労しながら写真を届けに来た市村鉄之助だったのです。

市村鉄之助が届けた「土方歳三の写真」

<参考資料>
土方歳三資料館 (開館は不定期)
https://www.hijikata-toshizo.jp/