「We Won! “我々が”勝ったのだ!」                       西竹一

西 竹一

にし たけいち

(1902年7月12日生まれ)

いまから80年ほど前の1932年8月14日、ロサンゼルスオリンピック最終日のメインスタジアムはどよめきに包まれていました。
「馬術大賞典障碍(しょうがい)飛越競技」で、日本の西竹一(にし・たけいち)中尉と愛馬ウラヌス号が、失絡者が続出する難しい障碍を次々とクリア。ほぼノーミスでゴール。
優勝すると思われていた米国のチェンバレン選手のスコアを上回ったのです。

沸き起こる「バロン西!」の賞賛
「人馬一体」の金メダル

堂々の金メダル。
11万人の大観衆は「流麗にして優美」な西の手綱さばきに魅了され、男爵の家系に生まれたという西の技量を称え、
「バロン西!」
という、賞賛の大歓声と拍手を送ったのでした。

優勝の記者会見で、西は

「We Won! (我々が勝ったのだ!)」

という言葉を使っています。
この金メダルが、愛馬ウラヌス号とともに勝ち取った栄冠であることを表現したものです。

メディアが伝えたオリンピックでの西とウラヌスの飛越(時事通信より)

メディアが伝えたオリンピックでの西とウラヌスの飛越(時事通信より)

 

この記者会見が報道されると、西への賞賛はますます高まり、一躍、人気者となり、地元ロサンゼルスから「名替市民」の称号を贈られるほどだったのです。

ロサンゼルス市長から「名誉市民」の称号を贈られた西竹一(中央)

ロサンゼルス市長から「名誉市民」の称号を贈られた西竹一(中央)

当時、その前年に起った満州事変のあと、日本への国際的な批判が高まっていた中にあって、西の人気はまさに異例のことだったのです。

もともと西の人柄は、明るく社交的で、帝国陸軍の中にあっても坊主頭を拒み、馬具や乗馬ブーツは特注のエルメス製、ハーレーダビットソンを乗りこなす、といった“規格外”の洒脱な面がありました。

愛馬ウラヌス号との出会いは、友人から「イタリアには誰も乗りこなせない、とんでもなく気性のむずかしい馬がいる」との便りを受けた西が、
「それならオレが」
と私費で購入したのが最初なのです。

愛車のクライスラーを飛び越えてみせるのが西とウラヌスの得意技だった。

愛車のクライスラーを飛び越えてみせるのが西とウラヌスの得意技だった。

体高180センチメートル、血統書もないアングロノルマン種の“せん馬(去勢された馬)”であったウラヌス号は、西はともに、ヨーロッパ各地を転戦しながら息を合わせ、オリンピックに向かったのでした。

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オリンピックの大舞台で、次々と障碍をクリヤー。

 

一束のたてがみと写真とともに硫黄島に散る
その死を追った愛馬・ウラヌス号

西竹一は東京麻布で男爵・西徳二郎の三男として生まれています
東京府立一中、陸軍士官学校を経て、陸軍騎兵第一連帯に入隊しています。16歳の頃に、知人の馬を見つけて乗らせてもらいますが、馬が暴走したために振り落とされてしまった、というのが西の乗馬(落馬)体験の始まりでした。

西とウラヌス号が金メダルの栄誉に輝いたロサンゼルスオリンピックの以後、戦火はますます激しくなっていきました。
西自身も陸軍戦車第26連隊の連隊長として硫黄島へ出征します。

1945年3月、太平洋戦争の末期、日米の激しい交戦は硫黄島を日本軍玉砕の地へ変えてしまいます。
アメリカ軍は、全島をほぼ制圧したのち、まだ、西の部隊が抵抗を続けているとの情報を得ていました。

アメリカ軍は「バロン西、あなたのロサンゼルスでの栄誉は知っている。降伏は恥ではない。我々はあなたを尊厳をもって迎える」と呼び掛けたという話が伝わっています(真偽は定かではない)。

アメリカ軍の投降の呼びかけに、西は応じず、地下壕のなかで自決しています。
その胸にはウラヌス号のたてがみと写真が忍ばせてあったそうです。

そして、西が死亡してからわずか6日後、日本に残されていたウラヌス号が老衰のため、静かに息を引き取ります。
最期まで「人馬一体」の呼吸を見せたバロン西とウラヌス号。

西が獲得した金メダルはいま、秩父宮スポーツ博物館にウラヌス号の蹄鉄とともに飾られています。

西竹一が履いていた乗馬用の長靴

西竹一が履いていた乗馬用の長靴

なお、クリント・イーストウッド監督作品の映画『硫黄島からの手紙』には西竹一が登場しており、俳優・伊原剛志が好演しています。