山吹色のゴールドに翻弄された時代と人。「金」にまつわる話題は尽きず…
金目鯛
ツタンカーメンの謎はどこまで解き明かされたのか(2)
─黄金に輝く王棺の「歴史的な発見の日」
“偶然”から生まれた奇跡。突然、作業員たちの手が止まった!
古代エジプトの歴史を解き明かすために、最大の考古学的発見といわれる「ツタンカーメンの墓」の最初の発見は、いまから90年前、1922年10月28日、イギリスの考古学者ハワード・カーターの手によるものでした。
それは、“偶然の産物”でした。
しかし、それは同時に、ツタンカーメンと古代エジプトの多くの謎が誕生したこの瞬間でもありました。このときから、「ツタンカーメン」という響きが、ある種の呪術のように人々を興奮させ、悩まし始めたのです。
イギリスの考古学者ハワード・カーターは、もともとはいくつかのエジプトの王墓発掘の場でスケッチ画家をしていました。しかし、その情熱は誰をも上回るものでした。
「“王家の谷”はすでに掘りつくされた」、と多くの発掘者・歴史学者が去っていく中で、カーターは2エーカー(約2500坪)にも及ぶ土地を碁盤の目のように区分けし、その1マスずつを手作業で掘り下げていくという、気の遠くなるような作業を6年以上も続けていたのです。
カーターに資金を提供していた英国人貴族・カーナヴォン卿も、新たな発見が出てくることはあきらめ、長期旅行に出掛けていました。
一時、カーナヴォン卿は、英国ハンプシャー州にある自宅のハイクレア城のハワード・カーターを呼び、発掘計画の打ち切りを指示したこともありました。しかし、カーターの強い熱意と、「新たな発見があった場合には、すべての名誉と権利を渡す」という説得に根負けし、1シーズンの発掘延長を決めたのです。
当時、王家の谷には王墓発掘作業のために、いくつもの粗末な作業小屋が建てられていました。
1922年10月28日、ラメセス3世の墓の北東まで掘り進んでいたカーターは、新たな発掘作業地点へ移動するために、自らも加わって古い作業小屋の撤去に取りかかっていました。
そのときです。労働者たちの手が突然止まったのです。
取り壊した作業小屋の下に、突然ポッカリと穴が開き、地下へ続く古びた階段の入り口が現れたのです。
「何か、見えるかね?」
土砂を取り除く作業を行ない、入り口を確認すると、その先には3メートルほどの下降通路が出てきました。夕刻には、さらに12段の石段、漆喰塗りの封印された扉の上部が発見されました。
興奮を押さえながら、カーターはいったん作業を中断し、スポンサーである英国のカーナヴォン卿へ電報を打ちました。
「ついに谷で見事な発見。あなたの到着を待つため、一時閉鎖。おめでとう!」―。
発掘現場に顔を揃えた、左から娘のイブリン、カーナヴォン卿、カーターの3人。
2週間後、カーナヴォン卿は娘のイブリンを伴って、急いでエジプトに駆けつけてきました。
翌日から、カーターは再び発掘作業を開始。
12段だと思われていた階段が実は16段であったことが確認され、2日がかりで扉を取り外してみると、さらに下降通路が続いており、最初の扉から9メートルのところに、第2の扉が現われました。
カーターはその第2の扉の左上部に穴を開け、そこからロウソクを差し入れて、内部を覗き込みました。
カーターの後ろにはカーナヴォン卿と娘のイブリンが息をひそめていました。
「何か見えるかね?」
緊張感に耐えられなくなって、カーナヴォン卿が発した問いに、カーターは、
「は、はい。すばらしいものが…」
と答えるのがやっとでした。
王の棺を調べるハワード・カーター。
黄金の輝きを放つ壁画・王棺
このとき、カーターの目には黄金に光り輝く動物や人の像、いままでに見たこともないような光を放つ壁画、そしてその前に横たわる王の墓と思われる黄金の箱。信じられない光景が広がっていたのです。
それこそが約3200年前に君臨したツタンカーメン王の墓であり、2000点以上にも及ぶ秘宝の数々だったのです。
ツタンカーメンのミイラは赤色珪石製の石をくりぬいて作られた棺の中に、さらに三重に覆われた王棺で覆われていました。それはこれまで発見された遺跡のどの王棺よりも豪華で、キズがなく、残されていたのです。
「薄暗い部屋の中から、徐々に細部が見えてきた。不思議な動物、像、そして黄金。どこもが光り輝いていた」(ハワード・カーター)
イギリスの考古学者ハワード・カーターが発見したツタンカーメンの墓には信じられないほどの歴史的遺産が含まれていました。
王のミイラにかぶせてあった黄金のマスク、金箔で装飾された壁画、玉座、動物像、装身具、日用品・・・など、2000点以上の埋葬品のヤマがあったのです。三重に覆われた王の棺では、いちばん内側の棺だけでも約110キログラムの純金が使われていました。
カーナヴォン卿は「遺物の多さだけではなく、そのたぐいまれな美しさ、すばらしい出来栄え、その独創性こそ、この発見を驚くべきものにしている」と語っています。
ミイラに直接かぶせられていた「王後のマスク」。
少年王の生前の顔に近いとされている。
紀元前1330年代に存在していた塗布技術と顔料とは
ツタンカーメンの墓からの数多くの出土品の中でも、最も有名なものは、あの『黄金のマスク』でしょう。
重さが11kg。ミイラの上にかぶせられていたこの黄金のマスクには、額には神の使者であるハゲワシや守り神であるコブラなどの飾りが付けられ、この2つが並んでいることは、「エジプトを統一した者」という意味があります。頭巾や胸飾りには、カーネリアンと言う赤い水晶の一種やラピスラズリ、長石、石英が使われています。
2006年9月、早稲田大学の宇田応之・名誉教授らは、ツタンカーメンの「黄金のマスク」のX線解析の結果を学会に発表しました。
それによると、黄金のマスクは23金の純度の高い金(ゴールド)が使われており、その表面には銀を混ぜた18金から23金程度の薄い金が膜状に塗られていたことが突き止められました。
金は純度が高くなると赤味を増し、銀を混ぜると白くなる傾向があるため、宇田教授は「王の若さを強調し、輝きを美しく見せるため、まるで薄化粧をするように、銀を混ぜた合金を粉末にしてニカワで溶き、1マイクロメーター以下の超薄さで塗ったもの」と説明しています。
また、マスクの頭巾にある青色の文様も、分析の結果、「これまでに使われたことのない顔料である可能性が高まった」と説明しました。
ツタンカーメンが生きた時代、紀元前1330年に、ここまで薄く金を塗布する技術が存在したのか、これまで使われたことのない顔料とは何のか・・・。また、新たな謎が生まれたのです。
ツタンカーメンが君臨した以降のファラオの王墓からは、これほど豪華で、精緻な技術を駆使して制作されたマスクは、出土していません。いったい、なぜ、ツタンカーメンの時代だけにこの精密加工技術が存在したのでしょうか? その制作集団は消えてしまったのでしょうか?
カテゴリ: 歴史