The Man of The Month
「今月生まれのこの人」の “心にきざむ言葉”
「私は、私の愚を守ろう」 種田山頭火
種田 山頭火
たねだ・さんとうか
(1882年12月3日生まれ)
「音はしぐれか」―これは種田山頭火が詠んだ、日本一短い「俳句」だと言われています。
「俳句の定型」を無視し
心の叫びを句に表わす
一般的には、俳句は五・七・五のリズムを持ち、季語を含むもの、と解釈されています。
この定型を完成させたのは、江戸時代の松尾芭蕉で、俳句の定型化にこだわり、
五月雨や 集めてはやし 最上川
古池や かわず飛びこむ 水の音
というような名句を多く残し、俳句の世界の「型」を確立させ、大きな貢献を果たしたのです。
これに対し、明治時代に入ると、型や季語に全くこだわりを持たない『自由律俳句』というものが登場します。それを代表する俳人が、『行乞流転の俳人』と呼ばれる種田山頭火だったのです。
山頭火が、芭蕉の確立した型を意識していたかどうかは定かではありませんが、その句は季語もリズムも無く、ただただ「心のおもむくまま、魂の底に眠る静かなる声」を俳句に込めたものでした。
まっすぐな道でさみしい
笠へぽっとり椿だった
なんとなく歩いて墓と墓の間
ともかく山頭火は自己の弱さや醜さを包み隠さず、心の動きをそのままストレートに、俳句として表現したのでした。
気ままに旅し、酒におぼれ、
自由律俳句に浸る
山頭火の生き様は、決して一般の人の参考や手本になるものではありませんでした。
山口県西佐波令郡(現・防府市)の造り酒屋の家に生まれましたが、その後、家は父親の放蕩と山頭火の酒癖のために没落。
山頭火は妻子を連れて熊本へ移り、古本屋を営みますが失敗。43歳のとき、熊本・報恩寺にて得度、仏門に入ります。
翌年には家族を捨て、西日本を中心に放浪流転の旅に出て、10歳代後半から慣れ親しんでいた「俳句」の世界に浸り込むようになります。
行く先々で、食べ物の施しを受けて、旅を続け、自由律俳句を作りながら、また、酒に浸る、という生活を繰り返すのです。
最初に行った九州山地の自然を見て感激した山頭火が詠んだ句は
分け入っても分け入っても青い山
というものでした。
四国八十八か所を巡礼し、小豆島では、
焼き捨てて日記の灰のこれだけか
と詠んでいます。過去の日記をすべて焼き、振り払おうとした過去に、自ら愕然とするのです。
人に金を無心し、酒におぼれ、それでも放浪の俳句づくりの旅を続けます。
山頭火には“一所不在”の生き方が性に合っていたようです。
市井の生活をあきらめ、俳友にあてた手紙には
「私は所詮、乞食坊主の以外の何物でもないことを発見し、また、旅へ出ました。歩けるだけ歩きます。行けるところまで行きます」(原文まま)
と書いています。
しかし、その旅は決して「悟り」の旅ではありません。山頭火は、ときに寝酒の心地よさに浸り、ときに寂しさに心を震わせていたのです。人の持つ弱さを山頭火は、素直に句に託したのかもしれません。
捨てきれない荷物の重さ まへうしろ
病んで寝て蠅が一匹きただけ
花いばら、ここの土とならうよ
食べるものに困り果て、顧みることがなかった熊本の実家に戻り、妻サキノに金を無心したこともあります。サキノのもとに身を寄せ、「落ち着こうとするが、それもできず」、そして、また、行乞流転の旅へ出るのです。
山頭火の生きていく様は、まさに、人の不格好な姿そのものを表わしていました。
うしろすがたのしぐれてゆくか
山頭火はこの句に「自嘲」という前書きを付けています。
無能無才なるが故に
ひたむきに道を歩く
51歳のときに、山頭火は「寝床がほしい」と、山口県・小郡町に『其中庵(ごちゅうあん)』という庵を構えます。友人である国森樹明を頼り、離れ座敷を探してもらったものです。
「とにかく近頃の私は飲みすぎる、遊びすぎる。ややすてばち気分に堕していることを痛感する」と自ら述懐しています。
そして、酔いざめのときに襲ってくるみじめさに、山頭火は自らに問いかけるのです。
曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
月がのぼって何をまつまでもなく
昭和10年、54歳の山頭火は心身ともに不調を訴え、死を覚悟して旅に出ています。「旅に出た。どこへ、ゆきたいほうへ、ゆけるところまで・・・」
東北、伊豆、大阪、信濃路、北陸・・・と歩き、「生活難ぢゃない、生存難だ、いや、存在難だ」、「性格破産の苦悩に耐えられないのだ」と自問自答しています。
『其中庵』が老朽のために崩れ、57歳になり、旅に疲れた山頭火は、四国・松山の御幸寺境内に『一草庵』という庵を構え、句作を続けます。
しばらく歩かない脚の爪のびているかな
蛙になりきって跳ぶ
どこからともなく涼しい風がおはぐろとんぼ
山頭火は、
「無能無才なるが故に、私は一筋の道を歩いてくることができた。所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守ろう」
と日記に書いています。
昭和15年、山頭火は59歳の時に友人と句会を開いている最中に脳溢血に倒れ、帰らぬ人となるのです。