「この世に生を受けたこと。それだけで最大のチャンスをすでにものにしている!」

アイルトン・セナ

Ayrton Senna da Silva

(1960年3月21日生まれ)

「音速の貴公子」と呼ばれ、F1レースのワールド・チャンピオンを3度獲得。史上最高のレーシングドライバーと呼ばれていたアイルトン・セナ。その死はあまりにも突然やってきました。

イモラ・サーキットの「タンブレロコーナー」に激突!
5時間23分後にもたらされた悲報

1994年5月1日、F1レース第3戦の「サンマリノGP」。イタリアのイモラ・サーキットで信じることのできない光景が広がっていました。
アイルトン・セナが操っていたウィリアムズのマシンが、ゆるく左に曲がっていく高速コーナー「タンブレロ」に激突。大クラッシュが起こったのです。

時速220㎞でのコンクリートウォールへの激突。日本のテレビでもライブ中継されていましたが、それは、あまりにも衝撃的な光景でした。
しかし、それでも多くのレーシングファンは「あのセナの抜群のテクニック、24歳という若さ、そして栄光に満ちた運の強さ」から、クラッシュの中から無事生還するセナの姿を期待していました。

イモラ・サーキットで信じられない光景が起こってしまった。

イモラ・サーキットで信じられない光景が起こってしまった。

しかし、事故現場から、意識不明のままヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたセナ。

衝突から5時間23分後の19時40分。
医師団のマリア・テレサ・フィランドリ女医から「アイルトン・セナ死亡」の宣告が行われています。

それは、母国ブラジルだけでなく、世界が大きな悲しみに包まれた瞬間でした。

13歳でカートレースに本格参戦、24歳でF1へ。
卓越したテクニックと「攻めの走り」

アイルトン・セナ・ダ・シルバは1960年3月21日に、ブラジル最大の年であるサンパウロに生まれています。
父は農場・牧場、小規模商店、自動車修理工場など多角経営者をしており、セナが4歳の時の誕生日プレゼントは子ども用の「レーシングカート」でした。

それ以来、セナの興味はクルマのドライビングに向かい、8歳の時には、すでにスクラップ寸前でクラッチの効かなくなったジープを巧みに操れるほどの腕前になっていました。

13歳で本格的にレースに参戦。17歳で南アメリカのカート選手権に優勝。18歳では日本国内カートレースの最高峰だった「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦し、5位入賞したこともありました。

1981年、21歳でヨーロッパに渡り、イギリスのフォーミュラ・フォード1600に参戦して優勝。1982年には、フォーミュラ・フォード2000に転向し、チャンピオンとなっています。

1983年にはF3に参戦。F1への登竜門といわれる、このカテゴリーでも、セナの実力は飛び抜けていました。開幕からの9連勝を含め、20戦中12勝を挙げてチャンピオンを獲得したのです。

1984年からは自動車レースの最高峰「F1レース」にチーム“トールマン・ハート”からデビュー。 精緻な運転テクニックが求められる雨のモナコGPなどで、24歳のセナは才能の片鱗を見せ付け、翌85年には上位チームのロータスへ移籍。『次世代のチャンピオン候補』としての地位を確立していきます。

天才的なテクニックで、圧倒的な「速さ」を見せつけたセナ。

天才的なテクニックで、圧倒的な「速さ」を見せつけたセナ。

とりわけ1周の速さを競う予選では、セナは圧倒的な集中力と、攻撃的で精密な走りで飛び抜けた「速さ」を見せ、ポールポジション(予選1位・PP)の位置を確保していきます。F1レースでの通算PP数は65回を数え、予選での限界ギリギリの走りはセナの大きな魅力でした。

ホンダ・エンジンで圧倒的な「速さ」を確立
ワールド・チャンピオンの座を3回獲得

とくに日本にとってアイルトン・セナの印象が強く刻まれているのは、F1レースの舞台に再びホンダがエンジン供給というかたちで参戦した1988年以降、マクラーレン・ホンダとアイルトン・セナのコンビが見せつけた圧倒的な強さでした。

トップチームの一角であるマクラーレンに参加したアイルトン・セナとホンダ・エンジン。
セナは他を寄せ付けることなく、1年目の88年には早くも16戦中8勝を上げ、ワールド・チャンピオンに。90年、91年にもワールド・チャンピオンの座についています。

当時、80歳を超えていたホンダの創業者・本田宗一郎がF1のパドックを訪れ、今は亡きF1ドライバー、アイルトン・セナに満面の笑みを浮かべて握手をし、
「おまえがナンバーワンだ! われわれがナンバーワンのエンジンを提供するからがんばれ」と激励しています。

アイルトン・セナと本田宗一郎氏との絆は深かった。

アイルトン・セナと本田宗一郎氏との絆は深かった。

91年、FIA(国際自動車連盟)から特別功労賞を授与された本田宗一郎は、セナに「ナンバーワン,ナンバーワン,ナンバーワン!!」と何度も英語で声をかけ,セナは本田に「ドウモアリガトウ」と日本語で返した.
その時、タキシード姿で撮った写真が,両名にとって生涯最後のツーショットとなってしまいました。

91年,F1第10戦のハンガリーGP直前,本田宗一郎がこの世を去りますが、 喪章をつけてこのレースに挑んだセナは勝利.この年,3度目のワールド・チャンピオンに輝いたのでした。

セナは常々、こう語っていました。
「自分には、まだまだ可能性があるはずだ。 もっともっと、高いところに昇る力が……。本当の頂点がどこなのかはまだわからないけど、僕が選んだ道、僕が歩いてきた道には、まだ続きがあるはずなんだ。 そして、そのずっと先に頂点がある」

表彰台で声援に応えるセナの姿。

表彰台で声援に応えるセナの姿。

モナコGPでの強さが証明した精緻な運転テクニック
史上最高のドライバーにも選出される

セナのドライビング・テクニックで特徴的なもののひとつに、コーナーでアクセルを小刻みにあおるドライビングがあります。
日本では『セナ足』と言われるそのテクニックは、コーナー進入時の安定性を向上させるとともに、コーナー脱出時の早いエンジンの吹き上がりをもたらすものでした。
小刻みで独特な回転数コントロールは、コーナーの立ち上がりで可能な限り早く加速するための技術として、セナが完成させたものでした。

当時、多くの一流レーシングドライバーが、この「セナ足」の検証と再現に挑みましたが、その結論は「わからない」、「常人には理解できない領域でのテクニック」というものでした。

狭く、急カーブが続くモンテカルロの市街地を走るモナコGPはレーシングドライバーの技量が最も試されるグランプリだと言われています。
このモナコGPで、セナは10戦して6勝という圧倒的な勝率を誇っています。文字通り、アイルトン・セナこそ「モナコ・マイスター」の称号に最もふさわしいドライバーだったと言えるでしょう。

急カーブが続くモナコGPで、セナの真価が発揮された。

急カーブが続くモナコGPで、セナの真価が発揮された。

イギリスの『F1 Racing誌(2007年2月号)』は、F1界を代表する有識者(28人)に投票を依頼し、最速ドライバー歴代50傑を選定していますが、史上最速のF1ドライバーには、アイルトン・セナが選出されています。2位は、ミハエル・シューマッハ、3位はジム・クラークでした。

また、英国の雑誌『オートスポーツ(2009年12月)』「は、F1ドライバー経験者217人の投票により「F1で最も偉大なドライバー」にセナを選出した。2位はミハエル・シューマッハ、3位はファン・マヌエル・ファンジオでした。

誰もが「忘れることのできないあの日」
不吉な空気がよぎっていたあの年のサンマリノGP

1994年、長年慣れ親しんだマクラーレンを離れ、前年のチャンピオンチームであるウィリアムズ・ルノーへ、セナは移籍します。
マスコミなどはウィリアムズに移籍したセナが全勝するのではないかと予想する者までいた。しかし、ルール変更やレギュレーション変更により、ウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテク技術の優位性が発揮できず、ウィリアムズのマシンはナーバスな状態が続いていました。

しかも、開幕第3戦のサンマリノGPは、予選から異様な出来事が起こっていました。
予選1日目、セナと親しく、同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送されました。結果的には鼻骨を骨折という軽傷であったものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故だったのです。
そして、予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことでした。

そして、1994年5月1日の決勝日。我々は最悪の光景を目にすることになってしまいました。

当時、F1中継のピットレポーターを務めていたF1ジャーナリスト川井一仁氏は、当時の光景をこう語っています。
(Web Sportiva川井一仁が語る「アイルトン・セナ、20年前のあの日……」より)

「確実に言えるのは、あの年のイモラ・サーキットは路面コンディションが最悪だったということ。
木曜日に今宮純(モータースポーツジャーナリスト)さんと一緒にコースを歩いてみた時、路面の舗装があまりにボロボロで、これはまともにレースできる状態じゃないと思った。セナの事故が起きたタンブレロコーナーなんて、舗装の継ぎ目が1センチぐらいの段差になっていて、最悪の状態だった」

(バリチェロのクラッシュとラッツェンバーガーの死亡事故により)
「いつもは金曜日と土曜日にやるセナのインタビューがすべてキャンセルになった……。だから、あの週末は、決勝まで一度も彼とゆっくり話ができなかったんだ。唯一、日曜日のレース前に、イモラの狭いパドックですれ違った時、「大丈夫?」って声をかけたら、セナが「ああ……」と、“心ここに在らず”という感じの、浮かない声で返事してくれてね……。それがおそらく、セナと交わした最後の言葉だったと思う」

セナは、生前、こう語っていました。
「もし自分が生きるんだったら、思う存分、密度の濃い生き方をしたい。 僕は密度の濃い人間だから……。そうじゃないと、人生が台なしになってしまう。 だから、僕はひどいケガをして病院で唸っているのも好きじゃない。 もし、事故で命を失うようなことになるんだったら、一瞬に終わってほしいね」
(ソニー・マガジンズ「アイルトン・セナ全記録」より)

母国・ブラジルで行われた「国葬」
あの5月1日は、いま「交通安全の日」となった

セナが事故死した1994年5月1日。故国ブラジルでは、サッカーの大一番「サンパウロFCvs.パルメイラス」の試合が、開始直後に止められ、セナの死去が伝えられました。スタジアム全体で、黙祷がささげられました。

セナの亡骸がイタリアからブラジルに搬送される際には、空からはブラジル空軍機が出迎え、地上では100万人以上のブラジル国民が待っていました。

葬儀は「国葬」で行われ、サンパウロ・モンルビー墓地に埋葬されました。その墓には「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(『新約聖書』ローマ信徒への手紙8章39節)」という言葉が刻まれています。

埋葬されているモンルビー墓地でのセナのプレート

埋葬されているモンルビー墓地でのセナのプレート

セナはこう語っていました。
「この世に生を受けたこと、それだけで最大のチャンスを、すでにものにしている」
しかし、24歳という年齢はあまりにも短いものでした。

「僕が歩いてきた道には、まだ続きがあるはずなんだ」と語っていたセナ。

「僕が歩いてきた道には、まだ続きがあるはずなんだ」と語っていたセナ。

F1クラスで過ごした10年1か月で、セナは161戦し41勝、ポールポジション獲得は65回という記録を打ち立てました。
「2位になるということは敗者のトップになるということ。勝つというのはドラッグみたいなもの・・・。状況がどうあれ2位や3位じゃ満足できない」

資料:「自動車人物伝~アイルトン・セナ」

資料:「アイルトン・セナ研究所」

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