「ボクは、人に迷惑をかけるのがイヤなんですよ」

吉永 正人

よしなが・まさと

(1941年10月18日生まれ)

スポーツ選手はよく「記録にも、記憶にも残る選手になりたい」という言葉を使います。しかし、実際に、多くのファンの中に鮮烈な“記憶”を残していく人は数少ないと言えるでしょう。
そういった中で、騎手・吉永正人は間違いなく「記億に残る人」だったと言えるでしょう。

競馬が持つドラマへ、
ファンの目に焼きついた騎乗ぶり 

25年間の騎手生活で、騎乗回数2753回、勝ち鞍461勝。ミスターシービーでの皐月賞・ダービー・菊花賞・天皇賞の四冠を制覇、モンテプリンス、モンテファストでの天皇賞制覇など、記録的にも騎手の高みにあったことは間違いありません。

しかし、騎手・吉永正人の真髄は、時には馬群から大きく離された所から直線一気の追い込み、時には意表を突く大逃げなど、目に焼き付いて離れない、独特のレースシーンを演じてきたことにあると言えるでしょう。

決してレース運びが洗練された「うまい騎手」ではありませんでしたが、ファンはこう言って、競馬場に足を運んだのです。
「吉永正人にはドラマがある!」・・・・。

 「はるか群衆を離れて・・・」、
不良馬場の40馬身差を見事に差し切ったコウジョウの末脚 

 

1971年(昭和46年)1月の「金杯」レース。

「金杯」は中央競馬ではお正月開けて最初の重賞レースで、競馬ファンは「金杯で乾杯!」となるか、「金杯で完敗!」となるか、「一年の計は金杯にあり」と呼び、その年の運を占うのを楽しみにするレースをなっています。

この日の府中・東京競馬場は、前日からの豪雨で泥んこの不良馬場となっており、芝2000メートルで行われる予定だった金杯も、ダートコースの2100メートルに変更されていました。

スタンドは満員。

16頭の出走馬の中には、名手・野平祐二が乗るメイジアスター、剛腕・郷原洋行騎乗の重上手・スイノオーザ、名門・尾形厩舎が送ったダービー3着の逃げ馬・ハクエイホウ(伊藤正徳騎手)など、ツワモノが揃っていました。

吉永正人騎乗のコウジョウも大外の16番枠ながら、前年秋の天皇賞でメジロアサマの5着に健闘したことから、5番人気に推されていたのです。

レースはハクエイホウ、加賀武見騎手のダッシュリュー、岡部幸雄騎手のトレンタムなどの逃げ馬が競り合い、ハイペースに。

しかし、それよりも観客をどよめかせたのは、馬群から30馬身以上も遅れて、一頭だけポツンと追走する一頭の馬・コウジョウの姿だったのです。

「何かアクシデントか?」「いくらなんでも離されすぎだよ!」

観客の声をヨソに、2コーナーでは差はますます開き40馬身へと開いていってしまうのです。

ところが、3コーナーから4コーナーへかけて、不良馬場でのハイペースのためか、先行馬群のペースがガクン!と落ちてきたのです。最後尾のコウジョウはジリジリと差を詰め、直線に入って、ドンジリの位置から、その末脚を爆発させます。その勢いは他の馬たちが止まっているかのようでした。

まさに吉永正人とコウジョウの強襲です。最後尾から一気に、直線で前に走る15頭をごぼう抜きしていきます。

ゴール板寸前で、内側で最後に粘るスイノオーザを差し切り、コウジョウは4分の3馬身差で勝利するのです。

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外から直線一気の追い込みで、先行する場群をまとめて差し切ったコウジョウと吉永正人

 

吉永正人はレースを振り返ってこう語っています。

「(コウジョウは)“なまくらな馬”なんです。追っても、追っても遅れてしまう。それでも、追わないと・・・」

 

馬と一緒に貨物車に揺られて上京。
常にカゲを落としていた“身体の重さ”

吉永正人は、昭和16年10月18日に、鹿児島県の牧場の家に生まれています。正人も小さな頃から馬の「引き運動」などを手伝っていましたが、牧場経営がしだいに苦しくなり、父親の勧めもあって騎手の道へ進む決心をするのです。

中学校の卒業式にも出ずに、正人は馬と一緒に貨車に揺られて東京へ出てきます。馬と一緒に、寝藁(ねわら)にくるまって、7日間の旅だったといいます。

競馬学校での講習を経て、松山吉三郎きゅう舎へ預けられ、正人はそこで初めて、本格的な馬の乗り方を教わったのです。

師匠として吉永の才能を引き出した松山吉三郎・調教師

師匠として吉永の才能を引き出した松山吉三郎・調教師

調教師の中でも「厳しい」ことで知られる松山吉三郎師のもとで修業を積み、上京から3年後の昭和36年3月には騎手免許を取得、デビューから5戦目で初勝利を上げています。

しかし、正人には、騎手として“致命的”とも言える欠点があったのです。

競馬の騎手としては、「大きく、そして重い」のです。
一般に、騎手たちの体重せいぜい45kg~48kgだったのに対し、吉永正人は55kgもあったのです。

中学生後半の時期から、身体が大きくなる体質が目立ちはじめ、食事を節制し、水を節制しても正人の身体は大きくなってしまっていくのです。身長は160センチを超え、体重は58kgにまで増えていきます。競馬の騎手としての「許容限度」を超えていってしまうのです。

新馬レースなどでは、騎手の負担重量はせいぜい48kg~50kg程度です。正人が騎乗するためには。その都度、減量で8kg~10kgも体重を落とさなければいけないのです。

この過酷な減量との闘いが、騎手・吉永正人の25年間の騎手生活で、常にカゲのように付きまとっていったのです。

まだらな芦毛馬・ゼンマツが見せた切れ味、
ファンの夢を乗せた逆転劇

ゼンマツと吉永正人のコンビも、人々に強い印象を残していきました。

ゼンマツは“芦毛馬”でしたが、決して「見栄えのいい馬」ではなく、灰色の毛色はまだらで、身体の前肢や胸前にはミミズ腫れのようなキズがいくつもありました。

それは、二歳の時に、牧場で「腸ねん転」になり、死線をさまようほどの苦しみの中で暴れ、もがいた時に身体に刻んだキズだったのです。

競馬小説を書いていた海渡英佑氏は「それは、みにくいアヒルの子のような」と表現しました。心ないファンからは「なんだか気味の悪い馬」という声さえあったのです。
しかし、ゼンマツはきらりと光る「青い瞳」が印象的な馬でした。

4歳クラシック路線では、ゼンマツは皐月賞で馬群のなかに沈み、ダービーでは追い込んでの5着と健闘したものの、菊花賞では19頭立てで大差のシンガリ負けを喫し、「発作性心機能障害のため、著しく遅れて入線」という発表があったほどでした。

「ゼンマツは気の弱い馬でした。他に馬がいないところを、ソーっと行かせなくちゃいけないし、追うとすぐ行きすぎちゃう。小さな時に腸ねん転をやって、そういう気性になっちゃったのかもしれませんね」(吉永正人)

ゼンマツが5歳になって、800万下条件レース「ヒスイ特別」でワイルドモアを破って一着、そして臨んだ重賞レース「アルゼンチンJC杯」でした。

1972年6月11日の「アルゼンチンJC杯」。

4歳時に負けているライバルたちが顔を揃えたこのレースで、ゼンマツは2番人気に推されていました。そんな人気にもかかわらず、吉永騎手とゼンマツのコンビは、馬群から大きく離れ、はるか後方からいつものレースぶりで進みます。

東京競馬場の最後の直線の坂に入り、吉永騎手が「行くぞ!」と合図を送ると、ゼンマツはカミソリのような切れ味を発揮するのです。

「絶対に届くまい」と思われた位置から、吉永騎手に気合いを入れられた瞬間、ゼンマツは馬群の外側を一陣の風のように、坂を駆け上がっていきます。4歳の時には歯が立たなかったバンライ、ハーバーローヤルらを一瞬にして抜き去り、古豪のトウショウピット、粘るダイセンプーを置き去りにして、ゴール板を駆け抜けたのです。

2400メートルを2分27秒0。レコードタイムの勝利でした。

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AJC杯で末脚を爆発させたゼンマツ

 

吉永正人の競馬をこよなく愛した作家・寺山修司さんは、
「競馬が人生の比喩なのではない。人生こそが競馬の比喩なのだ」と言っています。

「このままで終わりたくない、ドンジリで終わりたくはない。人生の直線を一気に追い上げて名を上げてみせよう、そう思っている連中には『追込む』ことしか残されていないのだ」――。

吉永正人の騎乗は追い込みだけでなく、ゲートを出た瞬間にすでに2~3馬身先を行く極端な「逃げ」にも特徴がありました。ライトワールド、モンテオーカンなど、手変わりして、吉永が騎乗すると、「劇的な逃げ」で勝利をつかむ馬もいたのです。

 

吉永騎手は語っています。

「僕は、人に迷惑を掛けるのがイヤなんですよ。馬ごみに入ると、アクシデントが起きやすい。だから、逃げや追い込みが好きなんです」

 

失意の底からの復活で「三冠ジョッキー」へ, 
そして「引退」へ

1974年11月。騎手・吉永正人は哀しみの中にいました。

妻・富美江さんがガンと宣告されて入院したのが、夏の暑い盛りの8月。そして、わずか3カ月後にあっけなくこの世を去ってしまったのでした。

府中の電話局の勤めていた富美江さんを、ボウリングの交流試合で吉永が見染め、結婚したのが、5年9カ月前。富美江さんは、時折、吉永のレースをスタンドで見守っていました。

妻のいなくなってしまった家庭に、吉永は5歳の長女、4歳の次女、まだ8カ月の長男と残されてしまい、やむなく、上の二人の娘を鹿児島の実家に預け、幼い長男は大阪にいた吉永の妹さんが面倒を見てくれることになりました。しかし、ポツンと残されてしまった吉永正人の悲しみは、競馬成績にも表れています。

73年まで7年連続して3割以上を記録していた『連対率』が2割台に落ち、得意の追い込みも「不発」に終わることが多くなってしまったのです。

寺山修司さんは、当時の吉永を評して「ただ、馬につかまって、思い出から逃げている」と評しました。

しかし、そんな吉永正人を復活させたのは、やはり馬や人との新たな出会いだったのです。シービークイン、ギャラントダンサー、シービークロス。そして、鈴木みち子さん(後の吉永みち子さん)との新たな恋と結婚、戻ってきた子どもたち・・・。

「クラシックレース(現在のG1レース)には勝てない!」と言われた吉永正人は、1982年にモンテプリンスで春の天皇賞に勝利。

天皇賞を制覇したモンテプリンスと鞍上の吉永正人騎手

天皇賞を制覇したモンテプリンスと鞍上の吉永正人騎手

「我慢するだけ我慢して、追い出しはあとから。4コーナーで手ごたえが残っていたので、先頭に立った後は、どの馬が追いかけてこようと振りきれる」

いつもは厳しい師の松山吉三郎調教師も「胸に迫るレースだった」と語った勝利でした。

続く83年には、”くせ馬“と呼ばれたミスターシービーで、皐月賞、日本ダービー、菊花賞の三冠を制し、シンザン以来19年ぶりの「三冠馬」を誕生させ、自らは三冠ジョッキーに、84年には秋の天皇賞も勝利しています。

皐月賞では最後方からの直線一気の追い込みで勝ち。菊花賞では3コーナーからの「早すぎる!」とファンに悲鳴を上げさせた”早仕掛け”で、その騎乗は「吉永正人ならでは」、「破天荒なレース」と言われました。

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名コンビでもあった吉永騎手とミスターシービー

 

しかし、その栄光の日々から意外なほど早く、吉永正人がターフを去る日がやってきてしまいます。

たび重なる減量への過酷すぎる労苦は、吉永正人を限界まで追いつめていました。もともと体重が60kg近くあるため、毎回10kgも体重を落とさなければなりませんでした。

真夏の調教でも一人だけ分厚く着こんでのぞみ、雨の日はヘルメットを伝って落ちてくる“雨のしずく”を、「何よりも旨い!」と飲み込んでいたのです。

「毎週毎週、もうやめたいと思っていました。減量している間はしゃべるのがいちばんつらかった。唾(つば)も出ない・・・」

自ら引退を決意し、1986年3月9日の中山競馬場での最終レースが最後の騎乗になりました。

レースの後、正面スタンド前で、異例の引退式が始まりました。異例というのは、これまで1000勝以上を上げた騎手の引退セレモニーはありましたが、通算461勝の騎手の引退式典は初めてのケースです。

騎手クラブ会長であった加賀武見騎手から花束が渡されました。

最終レースに騎乗した騎手たち整列し、やがて、吉永を取り囲み「胴上げ」が始まったのです。大観衆からの拍手が鳴りやむことなく続き、それは、岡部幸雄騎手が「おれもターフを去るときに、こんな風に送り出してもらえるだろうか・・・」と語るほど、万感胸に迫るシーンでした。

無口な人として知られていた吉永正人でしたが、中島啓之、横山富雄、大崎昭一、菅原泰夫、田村正光らとともに結成していた「仲よし会」では、率先して場を盛り上げ、本当は「冗談のかたまりみたいな人」だったそうです。

最後のレースの日、競馬場で一度も笑顔を見せたことのない騎手・吉永正人は笑っていました。最後の最後に「コチコチになったレースぶり」を見せたにもかかわらず、感想を訊かれるとこう答えたのです。

 

「いや、ふだんと変わりありませんよ」――。

 

吉永正人は、騎手引退後、調教師となり、2006年9月11日に胃がんのためこの世を去っていきました。享年64歳の死でした。

 

参考:『三冠騎手・吉永正人』井口民樹著 (朝日出版社刊)

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