「わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたい!」           棟方志功

棟方 志功

むなかた・しこう

(1903年9月5日生まれ)

「ひまわり」に衝撃を受け、
「わだばゴッホになる!」と叫ぶ!

日本を代表する版画家、棟方志功は明治36年(1903年)9月5日、青森市で鍛冶屋の家に15人兄弟姉妹の三男として生まれています。

長嶋尋常小学校へ入学後、青森県特有の「ねぶた絵」や「凧絵」に興味をもち、級友に絵を描いてあげたりしていました。
ただ、家が貧しかったために、尋常小学校を出ると家業の手伝いをはじめ、その一方では裁判所の弁護士控え所で「給仕」として働き、その仕事の合間に公園に出かけ、写生をするなど、絵の勉強はまったくの独学でやっていました。

そんな時、友人が差し出した創刊されたばかりの雑誌『白樺』に、志功は目を奪われます。そこに載っていたのはゴッホの「ひまわり」の絵だったのです。

「炎のように燃え上がる黄色に、ヒマワリの生命力と存在感に圧倒された」と志功は語っています。

その衝撃を受けて以来、志功は油絵のことを「ゴッホ」と呼ぶようになります。志功の中では「油絵=ゴッホ」の図式が出来上がってしまっていたのです。

「わだばゴッホになる!」

この言葉を叫び、志功が東京へきたのは21歳のときでした。
油絵を描き、応募しても当初は落選続きの日々が続いていました。3年、4年と時間だけが経っていったころ、見かねた画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めます。

しかし、志功はこれに激しく抵抗しています。
「わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」と、のちに志功は話しています。

上京から5年目、昭和3年に故郷の青森市郊外の果樹園を描いた油絵「雑園」で、帝展に入選します。

視力が弱く、木版画の道へ転向
「カネになる、ならないを超えた仕事を!」

ただ、その頃には転機はすでにやってきていました。
小さな頃から弱視で、視力が弱かった志功は「対象物・モデルがよく見えない自分」に気づきます。
そして、「日本から生まれ切る仕事こそ本物だ」と思い始めた志功は、ゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった「浮世絵」を見て、「日本には独特の木版画の世界があるじゃないか」と、版画(板画)への道に、心と身体を燃やし始めます。

油絵でゴッホになる夢をあきらめた志功が、再びゴッホによって、命を燃やし始めたのです。

「カネになる、ならないを超えた、仕業位性の高い日本の版画をつくらなければならない」

発表した木版画が次々と入選し、版画一筋の道を選んだ志功は、書道を極めた文人・会津八一に会い、大きな影響を受けます。

その結果、生まれた作品が、志功の代表作のひとつ『大和し美し(やまとしうるわし)版画巻』です。
詩人・佐藤一英の詩「倭建命(やまとたけるのみこと)の一代記」を板画にしたもので、絵の数より文字の数が多いユニークな作品に評価が分かれましたが、当時の日本を代表する民芸研究家である柳宋悦、陶工の河井寛次郎らの目に止まります。
そして、日本の近代工芸の粋を集めた美術館として開館を控えた「日本民藝館」に買い上げられることとなったのです。

故郷・青森を愛し、自由奔放でストレートな表現・・・。
志功の作品は、海外でスイス・ルガノ国際版画展優秀賞(昭和27年)、サンプウロ・ビエンナーレ版画部門最高賞(昭和30年)、ベネチア・ビエンナーレ国際版画大賞(昭和31年)と圧倒的な高い評価を受けています。
当時、会場で働いていた人の証言「会場へ来た人のほとんどすべてが、ムナカタの木版画の前に愕然としていました。」

ベネチア・ビエンナーレに出品した大作『釈迦十大弟子』では、志功はこう語っています。
「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているだけなのです」

 

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エネルギーが最高点に達したところで
版木に向かう!

棟方志功といえば、ぶ厚いいレンズのメガネをかけ、板木(はんぎ)に顔をすり付けるようにして一気にノミを振るう姿が印象的ですが、彫りはじめる前に1年以上にわたって構想を練り、練習描きと思われる画稿を残し、そのエネルギーが爆発点に達したとき、制作に向かい、一気に彫り上げるのです。

アイシテモ愛しきれない 
オドロイテモ驚ききれない 
ヨロコンデモ喜びきれない 
カナシンデモ悲しみきれない 
それが板画です。

志功は「版画」をそう語っています。

「花深処無行跡(はなふかきところ いくあとなし)」??この言葉は、志功が好んで使う言葉のひとつです。
それは、自分が、どんなに偉い人であろうと、金持ちであろうと、この大自然の中では、私たちは皆とても小さく、私たちの足跡などすぐに消されてしまうものだ、ということを示したものです。

自ら“板極道”と名乗った棟方志功は、昭和50年(1975年)に72歳で永眠。「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残しています。