「隠されてしまったわが太陽を取りもどさなければならならない」

平塚 雷鳥

ひらつか・らいてう

(1886年2月10日生まれ)

女性の「真の自立」へ、
自ら“新しい女”の生き方を貫く

日本の女性解放運動、婦人運動のリーダーの役割を担った平塚雷鳥は、明治19年(1886年)に東京千代田区麹町に生まれています。
本名は平塚 明(はる)。「雷鳥(らいてう)」というのはペンネームとして使っていた名前です。

女学校時代は、高級官吏であった父の意思により、当時、国家主義的教育が行われていた「東京女子高等師範学校付属女子学校」で過ごし、彼女自身は息苦しい学校生活を強いられます。
しかし、自ら仲間を集め、「海賊組」と呼ぶ修身の授業をサボる組織を作ったり、テニス部で活躍したり、彼女はそれなりの学園生活を楽しむ工夫をしていたようです。

雷鳥(当時は平塚明)は大学を卒業した後、禅の存在を知り、日暮里の禅道場「両忘庵」に通い詰め、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』などに影響を受け、次第に自分独自の道を歩み始めるようになります。

22歳の時、雷鳥は文学の勉強会で出会った文学青年・森田草平と那須塩原温泉で、心中未遂事件を起こします。
新聞には「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士、小説家 情婦は女子大学卒業生」などと書き立てられ、雷鳥はスキャンダルの渦中に放りこまれます。
しかし、その非難の中から、彼女自身は抑圧された社会の仕組みや、男尊女卑の世界を知り、「自我の開放」へ興味を抱くようになっていったのです。

雑誌『青鞜』の創刊に踏み切り
シンボルとなった名文「元始、女性は太陽であった」を記す

1911年、平塚雷鳥は、母から「娘の結婚資金のために貯めていた」資金を援助してもらい、雑誌社「青鞜社」を設立。その年の9月、25歳のときに女性による女性のための初の文芸誌『青鞜』の創刊に踏み切ります。

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その創刊号に平塚雷鳥が掲げた文章は、現在でも「女性解放」の象徴的な一文として、語り継がれているものです。

「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く。病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されてしまった我が太陽をいまや取戻さねばならぬ」

このとき、はじめてペンネームである平塚雷鳥という名前が使われました。

ただ、この「元始、女性は太陽であった」で始まる巻頭文は、長文で、その内容はなかなか理解しにくいものです。それは、雷鳥が“禅”の影響を受けており、精神世界の言葉がいくつも入ってきているからです。

「天才は、男性にあらず、女性にあらず」

雷鳥は、男性優位の社会構造を真正面から批判し、天才(天から与えられた才能)は男女の性別を超えたものであり、いまこそ女性は、解放され、その天才を発揮し、真の自由を勝ちとらなければならない、と宣言したのです。

賛同者のひとりである与謝野晶子は、『青鞜』創刊号に「そぞろごと」と題する一文を寄せ、「山の動く日きたる」と書いています。

しかし、当時の新聞は冷たい視線を浴びせ、多くの男性からの批判が集中します。
その一方で、女性への反響は大きく、青鞜社には女性からの「支持」の手紙が殺到し、訪ねてくる人も多かったそうです。
これまで、封建的家族制度の中で、自己を押えてきた女性たちにとって、「個の確立」、「自我の開放」というメッセージは実に新鮮な響きを持っていたからです。

のちに、自叙伝を出版する際に、雷鳥は、こう記しています。
「“青鞜”の運動というと、すぐいわゆる婦人解放と世間からは思われてしまいますが、それは、婦人の政治的・社会的解放を主張したものではなく、人間としての婦人の自我の目覚め、それの全開放を志向する心の革命から出発しなければうそだと思っていました」

再三のスキャンダルがさらに意思を強くさせ、
「新しい女」を自ら表現する

平塚雷鳥は『青鞜』では、女性が自分自身の考えをしっかりと持つように再三にわたって訴えます。
自らも「私は新しい女である」ことを宣言します。

ただ、女性が抑圧されていた時代に、この「新しい女」という考え方と行動が世間に受け入れられるには多くのカベがありました。

17歳で『青鞜』の編集に加わった尾竹紅吉(オタケ・ベニヨシ、富本一枝)が、五色のカクテルを飲んだり、吉原の遊郭に出入りしていることなど、その奔放な行動が評判になり、“五色の酒事件”、“吉原登楼事件”と騒がれ、世間の顰蹙(ひんしゅく)を買うことになります。

これは、『青鞜』の収入増に何か協力したい、と考えた10代の尾竹紅吉が、広告取りに出かけたバー「メイゾン・ド・鴻の巣」でカクテルを作ってもらい、飲んでいるところを目撃されたものです。また、尾竹紅吉の叔父は、
「女性の解放などと言っているが、それなら、女の暗闇を見せてやる」と言って、尾竹紅吉と平塚雷鳥、それに創刊の発起人でもある中野初子の3人を、吉原遊郭へ連れて行ったのが最初でした。紅吉はその独特の世界に刺激され、通うようになってしまったのです。

平塚雷鳥と青踏に関係する女性たちは、社会的な批判的の対象とされ、常に注目されていたとも言えます。いくつものスキャンダルに見舞われ、冷たい視線を浴びますが、雷鳥はその都度、かえって闘志を湧き立たせます。

スウェーデンの社会思想家、エレン・ケイからも大きな影響を受け、「女性の参加なしで、真の意味の精神的社会革新が達成された事は一度もなかったのだ 」という言葉に共感します。

いまでは、当たり前になっている“事実婚”というかたちの結婚を日本で、最初に実行したのも平塚雷鳥です。
26歳のとき、友人とともに青踏社を訪問にきた画家志望の青年・奥村博史と、お互いに一目ぼれし、同棲生活に入ったのです。
奥村との間には2児(長男、長女)をもうけますが、従来からの結婚制度のかたちに縛られることなく、雷鳥は平塚家から分家して、自ら戸主となり、自らの籍に入れています。

その後も、市川房江らとともに「新婦人協会」を設立し、「婦人参政権運動」を進めるなど、平塚雷鳥は女性の真の自立と地位向上に生涯を捧げました。
戦後、平塚雷鳥は、「日本婦人団体連合会」の結成に動き、「世界平和アピール」なども行っています。84歳のときにはベトナムの「母と子保健センター」設立の運動を呼び掛け、1971年(昭和46年)に、85歳で逝去しています。

「烈しく欲求することは事実を産むもっとも確実な真原因である」

これは、青踏の創刊号で「元始、女性は太陽であった」で始まった雷鳥の一文の、締めくくりの一節です。

その思想は多くの女性に勇気と希望を与えたと言えるでしょう。

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