「障子を開けてみよ。外は広いぞ。」

豊田 佐吉

とよだ・さきち

(1867年2月14日生まれ)

自動織機の父
日本の産業の礎を築く

「豊田式自動織機」の開発者として知られる豊田佐吉は1867(慶応3)年に遠江国山口村(現在の静岡県湖西市)に生まれています。
佐吉自身は腕のいい大工だったのですが、母が布を織る姿を見て、少年時代から織機の改良に熱心に取り組んでいたのです。

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大きな転機となったのは、1890(明治23)年に東京で開かれた「勧業博覧会(今でいう産業万国博)」を見たことです。佐吉は閉幕まで15日間も通い詰め、最後の日に監視員の人から声をかけられます。

「毎日、何を見に来るのかね」
「機械の動きです。わからないことがたくさんあるので…」
「当たり前じゃないか。ここにある機械はドイツやイギリスなど外国で作られたものばかりさ。日本人には到底考えつかないものばかりさ」
こう言われて、佐吉は大声を上げたそうです。
「日本人には考えつかないって!日本人がみな馬鹿だとでも言うのですか!」

この日から佐吉は、前にも増して織機の改良に没頭し、とうとう最初の発明品、「豊田式木製人力織機」を開発し、特許を取得します。完成の日、黒山の人だかりのなかで、佐吉の機械を使って布を織り上げたのは佐吉のお母さんでした。

「人のやったことは
人のやれることの100分の1にすぎない」

その6年後の1896(明治29)年には石油を燃料として動く「木鉄混製動力織機」の開発に成功。1924(大正13)年には途中で糸がなくなっても自動的に糸を継ぎ足し、布を織るスピードが変わることなく織り続けることのできる「無停止杼換(ひがえ)式豊田自動織機G型」を開発し、当時の世界の紡織機トップ企業、英国プラット社に当時の金額で100万円という高額で技術供与することになったのです。文字通り「世界一の自動織機」を生み出したのです。

「人のやったことは人のやれることの百分の一にすぎない」。

豊田佐吉はその生涯で、119件もの発明を行い、特許8件、実用新案35件を得ています。
これらの発明で得た資金を元に、佐吉は息子の喜一郎に「私は自動織機をつくった、お前は自動車をやれ。安くて性能の高い車を製造することが国のためになる」と言ったのです。トヨタ自動車はここから始まっていきます。

「障子を開けてみよ。外は広いぞ」。

独学で織機の改良をトコトンまで突き詰めた豊田佐吉は、産業の分野で世界に負けない日本を作ろうとしていたのです。

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