ツタンカーメンの謎はどこまで解き明かされたのか (4)

発掘関係者の「謎の死の連鎖」。果たして「ツタンカーメンンの呪い」によるものか、ただの偶然か? 

ツタンカーメンをめぐる「謎」で、ミステリーとも言えるものが、発掘に関わった人の相次ぐ「謎の死」だと言われています。
本当に「ツタンカーメンの呪い」はあったのでしょうか?

「ツタンカーメンの呪い」が起こした?“不審な死の連鎖”。
 ファラオの墓に触れた者への報復か?

ツタンカーメンの墓が発見された際、その入り口には次のような碑文が刻まれていた、と言われました。

「偉大なるファラオの墓に触れた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう」

イギリスの考古学者ハワード・カーターが偶然にツタンカーメンの墓へ通じるトンネルを発見したのは、1922年10月28日のことでしたが、不思議な出来事はその直後から始まっていたのです。

カーターが飼っていたカナリアがコブラに食べられ、死んでしまったのです。エジプトでは、カナリアは「幸運の鳥」とされ、その幸運の鳥が死んでしまったことは“不吉な前触れ”ともいえるものでした。

そして、発掘の翌年、1923年の4月、カーターに資金を提供していたスポンサーであり、実際に、ツタンカーメンの墓の発見にも立ち会った英国人貴族・カーナヴォン卿が、髭剃りの最中に蚊に刺され、その傷がもとで敗血症に陥り、手当手の甲斐なく、この世を去ったのでした。

カーナヴォン卿

発掘調査のスポンサーであったカーナヴォン卿は、発掘の翌年、不審な死を遂げた。

このニュースは、たちまち世界を駆け巡りました。ちょうど、「ツタンカーメンの呪いがあるのでは……」という噂が広がっていた時でもあるからでした。
ニューヨーク・タイムズ紙は「王墓に入った者への残忍な報復!」という見出しを掲げ、イギリスでも「ファラオの毒によって死がもたらされた」と報道されました。

しかし、この怪死事件はこれだけにとどまりません。
カーナヴォン卿の死後、5カ月経って、弟(異母兄弟)の一人であるオーブリー・ハーバートがやはり敗血症で死亡。
さらに、1929年には、カーナヴォン卿の秘書をしていたリチャード・べゼルが、ロンドンの会員制クラブの一室で、窒息死しているのが発見されたのです。

弟のオーブリーは、カーナヴォン卿の親族ではありましたが、ツタンカーメンの発掘には一切かかわっていなかったのです。
ただ、秘書のリチャード・べゼルは、当初、ツタンカーメンの墓所が発見された際には、一緒にその中に入って行ったメンバーの一人でした。

放射線技師、投資家、編集者までも……。
関係者20人以上が死を迎えた

ツタンカーメン発掘の関係者の「謎の死」は、まだまだ続きます。
放射線学者であり、ツタンカーメンのX線写真を撮影し、博物館へ調査を依頼したアーチボルト・ダグラス・リード博士は、調査依頼の翌日に、急に体調を崩し、その3日後にはあっけなくこの世を去ってしまっています。

また、アメリカの投資家であり、ツタンカーメン発掘の資金を提供しようと考えていたジョージ・ジェイ・グールドは、1923年にツタンカーメンの墓を視察したのですが、その後すぐに体調を崩し、その後、回復することなく、3か月後には肺炎で死亡しています。

発掘調査に立ち会う人々

調査に立ち会った人は果たして「ツタンカーメンの呪い」に襲われたのだろうか。

そのほかにも、英国人考古学者で、ツタンカーメンの発掘現場を訪れたこともあるヒュー・イブリン・ホワイト博士の死、ハワード・カーターの友人であり、ツタンカーメン発掘の記念として、ペーパーウェイトのプレゼントを受け取った英国人の編集者、ブルース・インガムの死。

これらを総合すると、何らかでツタンカーメンに関係した人のう、20人以上が、謎の死を遂げていた、ということになります。本当に「ツタンカーメンの呪い」はあったのでしょうか?
何ら科学的な裏付けはありませんが、噂が噂を呼ぶかたちで、「呪い」のエピソードが広がっていったのは確かです。

「呪い」は創られたデマか。
メディアの抗争が「噂話」を拡大させた大きな要因

「呪い」説が広がる一方、その反対に「単なる噂に過ぎない」「ミステリーとして作られた話だ」という説も多く出てきました。

代表的なのは、1934年に米国のニューヨーク、メトロポリタン美術館の館長(1934年当時)をしていたハーバート・ウィンロック氏が発表した説でしょう。

ハーバート・ウィンロック氏自身も、ツタンカーメンの墓の発掘調査に加わったことがある人でしたが、
「関係者の死は、それらの人たちの多くが70歳以上という高齢であったこと、中には、もともと持病を抱え、健康状態に問題があった人も多かった」と指摘しています。
また、「ツタンカーメンの墓の前室に入った22人のうち、その後10年のうちに死亡したのは5人、王の棺の開封に携わった22人のうち、死んだのは2人、ミイラの包帯を解くことに立ち会った10人は、一人も死んでいない」と発表したのです。

呪いが実際にあったと考えるのは無理がありすぎだ、ということなのです。
しかし、「ツタンカーメンの呪い」は、世間には、興味ある噂話として、ドンドンと広がっていたのです。

そこには、ひとつの理由がありました。
当時、ツタンカーメンの発掘のニュースは、ロンドンの「ザ・タイムズ」紙が記事と写真を独占的に報道する契約を結んでおり、次々と考古学史上最大の発見を、ニュースにしていったのです。
いわば、ザ・タイムズが「スクープを独り占め」している格好になったのです。

「ザ・タイムズ」紙面

当時、ツタンカーメンの墓の発掘のニュースを独占していたロンドンの「ザ・タイムズ」紙。

これでは、他の新聞、雑誌などのメディアは面白くありません。不快な目で、ツタンカーメン発掘のニュースを横目で見ていたのです。
そのため、「関係者の不審な死」、「ツタンカーメンの呪い」という話題は、それらのメディアにとっては、まさに「飛びついてでも報じていきたいニュース」だったのです。
ここに、ツタンカーメンの呪いが、多くの注目を集めた大きな理由があるのです。

発掘調査の主役カーターには及ばなかった「呪い」。
いまなお残るツタンカーメンの謎

その後の調査では、墓のどこにも「偉大なるファラオの墓に触れた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう」という碑文はなかったことが証明されています。

実際のところ、発掘調査に立ち会った人々には、確かに「早死」する人もいましたが、多くは長寿で、平均でも70歳以上の年齢まで生きた人が多かったのです。
そして、何より、ツタンカーメンの墓発掘の主人公であったハワード・カーター自身が、発掘後17年も生き続け、若いころから健康を害していなながらも、結局は、つごう50年近くをエジプトでファラオたちの墓を探し、発掘して過ごしたことになります。

いまや、ツタンカーメンの王墓の発掘から96年を数えていますが、いまなお、その全容は解明されてはいません。
本当の死因は何だったのか?
病死だったのか、暗殺だったのか。
少年王が、なぜ華麗な副葬品に囲まれていたのか?
歴史のなかで、位置づけや血縁はなぜ記されていないのか?
「隠し部屋」は存在しないのか?

「ツタンカーメンの呪い」も、古代エジプトをめぐる、壮大なロマンのひとつと言えるのかもしれません。