The Man of The Month
「今月生まれのこの人」の “心にきざむ言葉”
「剣が強うて、涙がある!」 嵐寛寿郎
嵐 寛寿郎
あらし・かんじゅうろう
(1903年12月8日生まれ)
300本以上の映画に出演し、大衆時代劇映画のヒーローとも言える嵐寛寿郎。「アラカン」の名前で親しまれ、なかでも「鞍馬天狗」役はアラカンのハマリ役でした。
大衆時代劇のヒーロー 鞍馬天狗と映画の歴史を歩む
嵐寛寿郎は明治36年(1908年)12月に京都木屋町で生まれています。
祖父に人形浄瑠璃の初代・桐竹紋十郎、叔父に関西歌舞伎の嵐徳三郎、といった役者の血筋に生まれ、従妹には後に女優となった森光子がいました。
10歳から和装小物問屋に奉公に上がった寛寿郎は睡眠時間4時間、昼間はペダルを漕いでのミシン掛けに追われる日々を過ごしますが、月に1度の休みは、必ず忍術映画やチャップリン、キートンなどの喜劇映画を見て、役者を夢見ていました。
16歳の時、小物問屋の主人が亡くなり、店が廃業となったのを契機に、寛寿郎は赤穂浪士をテーマにした『義士劇』の舞台に立ち、18歳で「関西歌舞伎」に参加しています。
「役者」の血筋が騒ぎ出し 活動写真の世界へ踏み出す
ところが、転機はあっけなくやってきます。
5年ほど歌舞伎の芸と踊りを修行していた頃、指導を担っていた歌舞伎界の大御所・片岡仁左衛門が若手役者の踊りを「動きが鈍くさい」と怒り、真剣のミネで顔面を殴打したのです。
その場に居合わせた寛寿郎は、
「いくら才能があっても、これでは大成できない」
と感じ、歌舞伎への情熱を失ってしまいます。
そして、当時、無声映画の製作・配給を始めたマキノ映画への入社を決めます。
ちなみに、その時に殴られていた若手役者は後の映画スター・片岡千恵蔵でした。
自ら選んだ鞍馬天狗役
「おまけに子役(杉作)も付いている!」
「この中からやりたい役を選んだらいい」
マキノ映画の社長・牧野省三は講談社の雑誌『少年倶楽部』を寛寿郎の前にポーンと放ったのです。
寛寿郎が選んだのは、大佛次郎(おさらぎ・じろう)原作の『角兵衛獅子』に出てくる鞍馬天狗でした。
「剣が強うて涙がある。おまけに子役(杉作)も付いている」
寛寿郎の第1回映画作品『鞍馬天狗余聞・角兵衛獅子』は昭和2年に封切られ、大人気となります。
鞍馬天狗の頭巾は、後ろからマゲを出す形になっていますが、これは寛寿郎のアイデアです。少年時代にあこがれた活動写真の世界に、寛寿郎は心身ともに浸りきっていったのです。
マキノ映画で撮った昭和2年の初作『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』から、昭和31年の『疾風!鞍馬天狗』(宝塚映画)までの実に30年の長きにわたり、アラカンは『鞍馬天狗』映画に主演しています。
「生きてる天狗はわてが創った。捨てられやしません」
監督の伊藤大輔はこう回想しています。
「300メートルを全力疾走しながら右に左に斬っていくという立ち廻りシーンがありました。どんな役者でも乱れてしまうカットですが、寛寿郎さんは着物の裾が、全然乱れてこない。キチっとさばいているのです。あれこそ天下の“わざおぎ(俳優)”ですね」
時代劇だけでなく、年老いても、
独特の演技で「アラカン」流の味を醸し出す
また、作家の竹中労は、10歳の時に、嵐寛寿郎の演じた鞍馬天狗を観て、
「嵐寛寿郎の他には、神はいなかった!」と書いています。
嵐寛寿郎は、私生活では5回の結婚と4回の離婚とを繰り返しました。
アラカン自身は「モテたんちゃう。買いに行ったん。映画(界)入ったら月給は三倍やでん。使い道あらへん。これがいかんでしたわ。それから獄道ですワ」と語っています。
別れるたびに前妻に全財産と家屋敷を譲り渡していました。
そして、”面倒見のよさ”も格段のものがあり、戦死した「寛寿郎プロ」時代のスタッフの仏前へ、自費で一軒ずつ全国を回って香典をそなえたりと、スタッフへの物心双方の援助も惜しまなかったのです。生涯遊べるだけの金を稼ぎながら、財産はほとんど残さなかったのです。
アラカンは後年、『網走番外地』や『男はつらいよ』などで硬骨の老人役を演じ、往年のファンを大いに喜ばせたのです。
1980年(昭和55年)10月21日、嵐寛寿郎は76歳でこの世を去っています。