「もともと生きるとは妥協することである」                   江戸川乱歩

江戸川 乱歩

えどがわ・らんぽ

(1894年10月21日生まれ)

江戸川乱歩は日本のミステリー小説の世界を切り開いてきた人だと言えるでしょう。怪人二十面相、名探偵・明智小五郎、少年探偵団、といえば日本の推理小説・探偵小説に登場するキャラクターの「ビッグネーム」として多くに人に知られています。これらを生み出してきたのが、江戸川乱歩、その人なのです。

日本にミステリー小説の土台を築き、
「怪人二十面相」「少年探偵団」を生む

 
江戸川乱歩は本名・平井太郎。明治27年(1894年)に三重県・名張市に生まれています。

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探偵小説の主人公として大きな人気を得た「怪人二十面相」シリーズ

子供の頃から親の仕事の都合で引越しを繰り返していましたが、小学生の頃に、母に大阪毎日新聞に連載されていた菊池幽芳作『秘中の秘』を読み聞かせてもらったことが探偵小説との最初の出会いだったといいます。

少年の頃はおしゃべりで、モノマネなどが上手だったのですが、物心つくにしたがって、あまりしゃべらなくなり、独りで何か空想して、夕方など町を歩きながら、声に出してその空想を独白するくせがあったそうです。

小中学生の頃には謄写版で雑誌作りのマネをし、早稲田大学に進学したときには印刷屋さんの家に住み込み、図書館での貸出係のアルバイトなどもしていました。しかし、その後の乱歩は生活苦にも追われ、英語の家庭教師、貿易商、タイプライターの販売、造船工場勤務、雑誌編集、夜鳴きそば屋、ポマード瓶の意匠宣伝、債権取立て屋・・・…、と職を転々とします。25歳の時には団子坂で弟二人とともに「三人書房」という古本屋を営んでいたこともあります。

そして、29歳のときに雑誌『新青年』に投稿して、認められたのが「二銭銅貨」というタイトルをつけた小説でした。
乱歩はここからプロの小説家としての道を歩むことになるのです。

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多くの少年ファンをひきつけた「少年探偵団」

江戸川乱歩というペンネームは、アメリカの推理小説家エドガー・アラン・ポーからとったものです。
欧米の探偵小説に強い影響を受けて、乱歩は当時の日本では珍しい本格探偵小説を創り出し、31歳のときに発表した「D坂の殺人事件」、「心理試験」が大きな評判を呼び起こします。
「屋根裏の散歩者」、「人間椅子」、「闇に蠢く」、「陰獣」など、乱歩の作品は単に推理小説、探偵小説というよりも怪奇、グロテスク、サディズムなどの要素を持った、他に類を見ないものでした。

犯罪者の異常心理や、奇妙・猟奇的な事件を書くのを得意としていたのですが、その一方で「押絵と旅する男」のように幻想的で美しい小説も残しています。

ストーリー展開に生き詰まり、4回も「休筆」
放浪の旅に出たことも

1930年、乱歩36歳のときに、大衆路線への転向とも言うべき作品「明智小五郎」シリーズを発表し始めます。
「蜘蛛男」「黄金仮面」など、少年・少女の読者にも「楽しめる探偵小説」を創り始めるのです。44歳の時には「怪人二十面相」を生み出し、少年探偵団の小林少年と怪人二十面相のスリリングな対決が多くの話題を集めることになったのです。

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乱歩の生み出した小説は、単にミステリーというより、怪奇・幻想の要素を多く含んでいた。

31歳の時に専業作家になった江戸川乱歩でしたが、長い作家生活のなかで、つごう4回も休筆しています。多くの長編連載を執筆していますが、その途中で、筋の展開に行き詰まってしまうことがあったのです。ストーリー展開の行き詰まりから休筆を繰り返すこととなった、と言われています。そのため、休筆期間は、合計で17年間にもなったのです。

乱歩の小説は、読者からは好評を得ていましたが、書いている本人は「探偵小説らしくない」と思っていたものもあったようです。
そういった時期は、乱歩は放浪の旅に出たり、下町に部屋を借りて、公園で遊んでいたりしていました。

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突然の休筆も多く、新聞紙上に「お詫び」が載ることもあった。

小説を書いては、行き詰まりから休み。休んでは、しばらくして、再び書きはじめる、といった具合です。書くことを再開して、生まれた傑作もあります。

後に、乱歩は、

「もともと生きるとは妥協することである」

と語っています。

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平凡社から刊行され、ベストセラーとなった「江戸川乱歩全集」

新人発掘にも尽力し、
多くの才能を見い出す

ただし、乱歩の功績は優れた作品を多く生み出しただけではありません。
新人発掘や、才能を持つ書き手を世に送り出すバックアップを積極的に行い、「探偵趣味の会」からは横溝正史を、戦後も「日本探偵作家クラブ」を結成し、大藪春彦、筒井康隆、山田風太郎、小林信彦、星新一らの才能を見い出していきます。
プロデユーサーとしての才能を発揮していたのです。

1963年、自ら奔走した「財団法人日本推理作家協会」の設立が文部省に認可されたときには、病身を押して69歳で初代会長を務めています。
アメリカの推理小説家エラリー・クイーンとも文通しており、アメリカ探偵小説家協会の会員にもなっています。

その生涯で、46回もの引っ越しをした乱歩でしたが、最後に住んだのが、池袋の立教大学に隣接した土蔵付きの借家でした。乱歩はここが気に入り、58歳(昭和27年)の時に、自ら買い取り、亡くなるまで住みました。

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現在は、立教大学構内にある「旧江戸川乱歩邸」。作品原稿、蔵書などが残されている。

乱歩は自らを「幻影城城主」と呼び、ファンにサインを求められると、

「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」

と書き添えていました。
奇抜で幻想的な発想のミステリー分野を作り出した乱歩らしい言葉といえるかもしれません。
ちなみに、江戸川乱歩の出生地である三重県名張市では、怪人二十面相が特別住民票で住民登録されているそうです。

参考文献:「Scrap book by 愛書家日誌」
http://scrapbook.aishokyo.com/entry/2016/10/21/085438