「せっかく始めても、途中でやめたら何にもならない!」

鈴木 梅太郎

すずき・うめたろう

(1874年4月7日生まれ)

世界に先駆けて「ビタミン」を発見、
“脚気(かっけ)”の原因を突き止める!

「もしかしたら日本のノーベル賞受賞第1号になっていたかもしれない」――。そう言われているのが、世界に先駆けてビタミンを発見した農芸化学者・鈴木梅太郎博士です。

1911(明治44)年、当時37歳。東京帝国大学(現在の東京大学)農学部教授であった鈴木梅太郎は、米ヌカ(糠)のなかから脚気(かっけ)の治療に有効な微量成分を発見し、これを『東京化学会』誌で発表しました。
鈴木はその物質を「オリザニン」と名づけます。これが今日で言う「ビタミンB1」だったのです。

日本のみならず世界でも「脚気(かっけ)」は重大な病気でした。
現在では脚気の原因は“ビタミン欠乏”によるものとわかっていますが、当時は原因がわからず、全身の倦怠感、手足のマヒ、歩行困難、心臓肥大、呼吸不全を引き起こし、“死に至る病い”だったのです。

とくに、日本では江戸時代から白米を主食としてきた人々に多発した病気であり、日露戦争で戦地で死んだ人の半数以上が「脚気が原因」だったと言われています。

27歳のときに、文部省留学生として、ドイツに学んだ鈴木は、日本へ帰る際に、師であったベルリン大学のエディ・フィッシャー先生に尋ねます。
「(日本に)帰ったら、どのような研究に取り組むのがいいのでしょうか?」
「欧州の学者と同じ研究をしても、設備も足りないだろう。それよりも、とくに東洋で重大になっている問題をテーマにしたらいいだろう」

帰国した鈴木梅太郎は、「日本人の骨格はなぜ西洋人に比べて貧弱なのだろうか」という疑問から、「米」を中心にした日本人の食生活に原因があるのでは、という研究を進めます。

白米ばかりを与えたハト、肉ばかりを与えたハトなどを比べ、研究を進めていましたが、どちらも歩行困難の“脚気”の症状を起こし、死んでしまいます。あるとき「白米や肉ばかりでは、高価でもったいない」ということで、米ヌカを混ぜた餌を与えていたところ、ヌカを与えられたハトは、脚気の症状も起こさず、日を追うごとに元気になっていくのです。

「ヌカの中に、脚気に効く有効な成分が何かあるのかもしれない」

ヌカは、家畜の飼料や肥料に用いられるだけで、人の食用としては、まったく使われていないものでした。
1910年(明治43年)6月14日の東京化学会で、鈴木梅太郎は「白米の食品としての価値、並びに動物の脚気様疾病に関する研究」を報告します。その後、さらに、ヌカの中からの有効成分の化学抽出をめざし、動物実験を担当した獣学博士の島村虎猪と共同し、さまざまな角度から研究を繰り返します。
そして、ついに1年半後の1911年(明治44年)1月の東京化学会誌第32巻に、「ヌカ中の一有効成分に就て」という研究論文を発表するところまでこぎ着けたのです。

とくにヌカの有効成分(のちにオリザニンと命名)は、その欠乏が脚気の大きな原因となることを指摘し、オリザニンはヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調しました。
これが、いまで言うビタミンの概念がはっきりと示した瞬間なのです。

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国内でも、世界でも認められなかった“その大きな成果”
「ビタミン」という名前がなぜ付けられたのか・・・

しかし、この鈴木梅太郎の発見は、残念なことに大きな注目を集めるには至りませんでした。

というのも、日本では、脚気の原因は、「伝染病説」か「中毒説」か、という議論の勢いが強く、梅太郎の挙げた未知の「栄養欠乏説」を受け入れる素地はまったくと言っていいほどなく、脚気の原因説をめぐる混乱と葛藤が続いていたからです。

とりわけ陸軍省では、「(脚気の原因は)細菌による感染症だろう」という説が岩盤のように定着していました。日露戦争では、陸軍は約25万人の脚気患者を出し、うち約2万7800人が病死しています。原因の究明は急務だったにもかかわらず、その姿勢はかたくなでした。

これに対し、海軍省では軍医総監である高木兼寛(たかぎ・かねひろ)が、早くから脚気の原因は「食事」にあるかもしれないという見方をとり、白米の食事を麦飯に変更したり、洋風の食事をとりいれたりして、原因は突き止められなくとも、とにかく発病者の数だけは激減させることに成功していました。
それに対し、陸軍は批判の目を向けていたのです。陸軍・海軍の対立が強まる中でしたが、ともに鈴木梅太郎の「栄養面」の要因を受け入れられることはありませんでした。

鈴木梅太郎が「農芸化学者」であり、医者ではないという点にも、無視や軽視の要因が潜んでいたのかもしれません。

医学界からは、梅太郎の発見は「馬鹿げた推論に過ぎない」「のぼせ上りの理論」という声さえ上がります。オリザニンを純粋に抽出する設備・技術がなく、臨床的な根拠が欠けていたのも事実ですが、医学界にとっては、「畑違い」の分野の人間に、病気の原因を指摘され、それを簡単に容認することはできなかったのです。
わずかに、のちに「うまみ成分の発見者」となる化学者の池田菊苗博士が「果たしてそれが事実であれば、非常に面白い研究である」と論評しています。

翌1912年、鈴木梅太郎は『ドイツ生化学誌』に、それまでの一連の研究成果を整理し、オリザニンの発見を論文として発表します。
しかし、残念なことに、この論文は「日本語」のみの発表であったために、世界からの注目を集めることができませんでした。

鈴木梅太郎がオリザニンを確認してから約1年後、英国・リスター研究所において、鈴木梅太郎が発見した栄養素と同じ物質の抽出に成功し、発表した学者がいました。ポーランド人医学者カシミール・フンク博士です。
フンク博士は、その物質をラテン語で「生命」を意味する『Vita』と、有機化合物を意味する『amine』から『ビタミン』と名づけたのです。
そして、世界的にもビタミン物質発見の第一号はフンク博士とされ、この『ビタミン』という名前が、いま、私たちが日常で使う、一般化した言葉になっているのです。

「研究に必要なのは“根気”である」
農芸化学という新しい学問分野の扉を開く

現在では、鈴木の功績は決して低く見られているわけではなく、今日の「ビタミン学の扉を開いた」ことは間違いありません。

ビタミンという概念が確認されたことで、世界でビタミンの研究が一気に加速していきます。
天然素材の中から微量の有効成分を見出して分離することに関して、鈴木梅太郎は卓越した技術を持っていたようです。ビタミンB1 以外にも、ナイアシンやピリドキシン(B6)といったビタミンB 群の化合物を最初に天然物から分離することに成功。その数年後にはタラの肝油からビタミンAを抽出することにも成功しています。また、栄養学的に大変重要なアミノ酸である“スレオニン”も発見しています。

1924年には「日本農芸化学会」を設立し、わが国のライフサイエンスの基礎と応用の発展に尽くしています。日本では1943年には文化勲章が贈られ、1993年発行された「文化人切手」のなかの一人にも選ばれています。

鈴木梅太郎は、教壇に立つと、学生たちに向かって、机を叩きながら「論文は、英語で発表することを忘れないように!」と説いていたそうです。

1943年(昭和18年)、鈴木梅太郎は69歳になって著わした『ヴィタミン研究の回顧』の中で、こう語っています。

「ヴィタミンを産業の方面に応用することもたくさんある。余等はこの方面で役に立つことをやりたいと思っている。何の研究でもそうだが、かくいう研究はまったく根気が続かなくては駄目である。せっかく始めても、途中で止めては何にもならない。あくまず(いやにならず)に、やったならば今後も何か面白いことができるだろう」

当時、得られるべき栄誉と賞賛を浴びることはなかったのかもしれませんが、いま、この鈴木梅太郎博士のあくなき探究心は、“人々の健康”というかけがえのない大きな財産を残してくれたと言えるでしょう。

 

資料:『ヴィタミン研究の回顧』[PDF] (青空文庫)

http://www.aozora.jp/misc/cards/000957/files/vitamin.pdf

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