「功をあせるな。悲観するな。根を深く掘れ!」

升田 幸三

ますだ・こうぞう

(1917年3月21日生まれ)

将棋界のメジャータイトルである『王将戦』の第六局。その大事な一戦の場に「挑戦者が姿を現わさない」という事件が起こります。升田幸三こそ、その大事件の主人公であり、数々の伝説を残し、「将棋の鬼」とも呼ばれた人なのです。

将棋界の異端でもあった升田幸三

将棋界の異端でもあった升田幸三

 

「名人に香車を引いて勝つ」ことを期し
一人、大阪へ向かう

「百年に一人の天才」とも呼ばれた将棋指し・升田幸三は、1917年(大正7年)に広島県双三郡(現・三次市)に生まれています。
農家の四男に生まれた升田少年は、あるとき、ブレーキの壊れた自転車に乗っていて大ケガをし、休んでいる最中に将棋の本を読みふけり、勝負の世界に強い憧れを感じます。

「オレも将棋指しになる!」
という幸三に、しっかり者で家計を支えていた母の答えは、いつも「いけん!」でした。しかし、幸三は本気だったのです。
13歳の春に、升田は「大阪に行く」という書き置きを残し、家を出ます。
母親がいつも使っていた三尺の物差しの裏には
「名人に香車(きょうしゃ)を引いて勝つ」
と記してあったのです。

将棋の棋士にとって、名人に挑戦することは夢のひとつです。
そして、名人に勝つことはまさに大望です。
しかし、升田は、名人に対してさらに「香車落ち」というハンデを背負って勝ってしまおう、というとんでもない言葉を吐いて、大阪に向かったのです。

飲食店やクリーニング店での丁稚奉公をしながら将棋の腕で磨き、大阪の木見金治郎門下に入ります。
後輩には後のライバルとなる大山康晴などがいました。
升田の将棋は定跡にとらわれず次々と新しい戦法を編み出していく独創的なものでした。

昭和10年代当時、将棋界に君臨していたのは関東の木村義雄名人でした。
並みいる挑戦者をことごとく退け、無敵とも言える強さを誇り、しかも、人気は相撲界の双葉山と並び、ヒーローの扱いだったのです。

升田幸三は、新進気鋭の棋士として注目されていましたが、その風貌から“豪放磊落”なイメージを受けるのですが、実際には、研究熱心で、常に「もっといい手があるかもしれない」と考える探求者でもあったのです。
木村名人の棋風を徹底的に研究し、アタマの中には「木村名人を倒す!」という野望が膨らんでいました。

若き日、木村名人に挑む升田幸三

若き日、木村名人に挑む升田幸三

20歳になった升田幸三(当時六段)は、木村名人と対戦する機会を得ました。「香車落ち」というハンデをもらっての対戦でしたが、この対局に勝ち、大金星を挙げた升田には「(平手で)名人に勝てるのは升田かもしれない」という期待が集まります。

しかし、第二次世界大戦へ突入していった日本で、升田も二度にわたって召集され、戦地へ赴きます。ポナペ島に上陸した升田は、夜になると月に向かって
「木村よ、生きとれ!」
と叫んだそうです。

将棋作家である大崎善生氏は、
「その叫びには、『将棋を指したい』という升田幸三の純粋な思いが強くこもっていたのです」
と書いています。

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将棋界を揺るがす大事件『陣屋事件』
なぜ升田幸三は現れなかったのか・・・

戦地から帰還した升田幸三は、ますます「打倒!木村名人」を強く胸に刻み込みます。

「偉そうに言っているが、名人なんてゴミみたいなものだ」
「名人がゴミだったら、君は何だ!」
「さぁ、ゴミにたかるハエですかね」
二人の間には「ゴミ・ハエ論争」もありました。

1951年の名人戦では木村名人(右)に屈した升田幸三

1951年の名人戦では木村名人(右)に屈した升田幸三

1951年(昭和26年)、第十期名人戦では2勝4敗で木村名人に敗れた升田は、その半年後、新たに制定されたタイトル『王将戦』で、木村名人を窮地に追い込みます。

現在の将棋のプロ対局はすべて平手で行なわれますが、新たに始まった、この王将戦では、七番勝負でどちらかが相手に3勝差をつけた時には、次の大局では、リードしているほうが「香車を引いて(落として)戦う」、いわばハンデを負って七番勝負まで戦う、「三番手直り」という方式が採用されていました。

第五局を勝った升田は4勝1敗となり、王将位を獲得するとともに、次の第六局は「木村名人に対し、香車を引いて」戦うことになったのです。

升田幸三が、少年のときに抱いた無謀な夢、「名人に香車を引いて勝つ」ことへ挑戦する絶好の機会が訪れたのです。

しかし、1952年(昭27年)2月18日、対局会場となった神奈川県鶴巻温泉の「陣屋旅館」に、時間になっても升田幸三が姿を見せないのです。
その時に、別の旅館に籠っていた升田は、関係者の「対局の場へ」という説得に応じることはありませんでした。
そのため、結局は対局拒否というかたちで“不戦敗”ということになってしまいました。

これが有名な『陣屋事件』です。

当時、高柳敏夫八段(のちの名誉九段)は「それは玉音放送以来の衝撃的な出来事だった」と評しています。
升田の弁明は「対局前日の夕方に、陣屋旅館に向かったが、駅に着いても誰も迎えが来ていなかった」「旅館の玄関先で、ベルを押しても鳴らず、誰も応対に出てこず、ほおっておかれた」「あんな旅館で対局ができるか、と腹を立てしまった」というものでした。

しかし、真相は不明です。
実は、升田は、王将戦に「三番手直り」の方式が導入される際に、「もし、それで名人が敗れることがあれば、名人位そのものに大きなキズがつく」と強く反対していました。そこには、なにより“名人”のプライドを重んじる姿勢があったと言われています。また、升田幸三にとって、ここまで追いかけてきた大きな目標である木村名人という存在を、万が一にも傷つけてはならないという思いがあったのかもしれません。
また、「玄関のベルを押しても鳴らなかった」とされた陣屋旅館には、もとからベルは設置されておらず、この事件をキッカケに玄関先に“陣太鼓”が置かれることになりました。

升田幸三の処分は、当初「将棋連盟から除名」「1年間の出場停止」という声が高まる中、木村名人の裁定に委ねられることになりました。
木村名人は、「升田、理事会がともに遺憾の意を表明し、升田は即、復帰する」との判断を下したのでした。

事件が収まったあと、升田幸三は陣屋旅館を訪れ、
「強がりが 雪に転んで、廻り見る」
という句を色紙に残していったそうです。

事件後、升田が陣屋旅館に書き残して行った色紙

事件後、升田が陣屋旅館に書き残して行った色紙

 

「常に全部の駒が生きて、働いている」
GHQで「将棋」を説く

戦後、間もないころ、升田幸三はGHQ(連合国軍最高司令部)に呼ばれ、「日本の将棋はチェスと違って、相手の駒を自分の兵隊として使用する。これは捕虜の虐待であり、人道に反するものではないか」と言われたそうです。

升田幸三の答えは理にかなったものでした。
「冗談を言ってもらっては困る。チェスで、取った駒を使わないことこそ、捕虜の虐殺ではないか。そこへいくと日本の将棋のほうは、捕虜を虐待もしないし、虐殺もしない。つねに全部の駒が生きている。これは能力を尊重し、それぞれにはたらきを与えようという思想なんだ。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車という元の役職のまま仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」

「だいたいあなた方は、いちいち民主主義をふりまわすけれど、チェスのどこが民主主義なんだ? 王様が危なくなると女王を盾にして逃げようとするじゃないか。古来から、日本の武将は落城にあたっては女や子供を逃がし、しかるのちに潔く切腹したものだ。民主主義、民主主義とバカのひとつおぼえのように言ってくれるな」

宿命のライバル、升田対大山
「新手一生」を貫いた人生

升田幸三と大山康晴は、5歳違いですが、同じ木見金治郎門下で育ち、宿命のライバルとも言われました。
兄弟子の升田幸三は当初は「守り」が強い将棋で、大山は「攻め」を重視する、互いにイメージとは逆の棋風を持っていたそうです。

升田幸三が打倒を誓った木村名人から“名人位”を継いだのは、大山康晴が先でした。
翌年から、升田幸三は、2年続けて大山名人へ挑戦しますが、完敗ともいえる内容で、敗れてしまいます。
しかし、升田はここから強さを見せていきます。大山名人を相手にした第5期王将戦で、開始から3連勝し、再び、升田に「名人に香車を引いて勝つ」機会が訪れます。満を持した戦いに升田は勝ち、タイトルを奪取。

翌1957年の第16期名人戦でも大山名人を4勝2敗で破り、この年、升田は将棋界史上初の『三冠(名人・王将・九段=当時の全タイトル)制覇)独占』を成し遂げます。

将棋界初の「三冠」の座に就いた日。

将棋界初の「三冠」の座に就いた日。

その感想を聞かれた升田幸三は、
「たどり来て、未だ山麓」
と言っています。

「ボクは、本当は肩書きや勲章みたいなものは欲しくないんだ。ボクは、将棋指しだから、死んで後世に残るのは対局棋譜だけだ」

第17期でも挑戦者の大山を退け、防衛に成功しましたが、升田からこのタイトルを奪い返したのもやはり大山康晴でした。以後は、4度挑戦する機会を得ましたが、ことごとく敗れ、これに対して大山は名人戦13回連続防衛という金字塔を打ち立てています。

升田、大山の対局は常にもつれた展開になる

升田、大山の対局は常にもつれた展開になる

大崎善生氏は、両者の将棋の違いを「升田はロマンを追い求め、大山は勝負に徹底してこだわった」と書いています。
「常識のひとつひとつを疑ってかかり、ここぞというときに“新手”を繰り出して勝つのが升田の将棋なら、大山は最善手よりも相手が迷って悪手を指すような手を打って勝つほうを選んだ」
「将棋に“正解”がある」と考えていたのが升田幸三であり、「将棋は形勢判断がもっとも大事。一手読めればいい」と考えたのが大山康晴、と言うのです。

升田幸三は言っています。
「一人前になるには五十年はかかるんだ。功をあせるな。悲観するな。もっと根を深く張るんだ。根を深く掘れ!」

作家であり、『将棋ジャーナル』誌に連載エッセイを書いていた団鬼六氏が、飛車落ちのハンデをもらって升田と対戦し、あえなく敗れたときに、感想戦で升田にこう言われたそうです。
「途中まではあんたが絶対優勢じゃったが・・・」
「どのあたりでしょうか?」
「駒を並べた時です。わしのほうには飛車が無いが、あんたには有る」
「どの手が悪かったのでしょうか?」
「あんたが駒を動かしたのが敗因ということになります」

駒の箱に記された「新手一生」

駒の箱に記された「新手一生」

ヘビースモーカーで1日200本ものタバコを吸い、将棋に「新手一生」と独創を求めた升田幸三は、1991年(平成3年)に心不全のため、73歳でこの世を去っています。

いま、将棋界には、年間で最優秀棋士賞、最多勝利賞、新人賞などと並んで、「新手、妙手を指した棋士」に贈られる“升田幸三賞”が制定されています。


参考:「名人に香車を引いた男―升田幸三自伝」升田幸三著(中公文庫)
  「こだわり人物伝・升田幸三」大崎善生著(NHKブックス)

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