「人生は闘うがゆえに美しい!」

ピエール・ド・クーベルタン

Pierre de Coubertin

(1863年1月1日生まれ)

フランスが失った自信を回復するために
「スポーツによる教育改革を!」

今年の7月27日からロンドンオリンピックが開幕します。このオリンピック大会の開催を提唱し、「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタンは1863年1月1日にフランス・パリの芸術家の貴族の家に生まれています。

当時の貴族階級の家では、子息は士官学校に進むのが一般的で、クーベルタンも、17歳でサンシール士官学校に学び、ゆくゆくは軍人か政治家になることを期待されていたようです。

しかし、クーベルタンはこの士官学校をすぐに退学してしまいます。
当時のフランスは、普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)の敗戦によって暗いムードに覆われており、とりわけ若者たちの心には、精神的な弱さが根付いてしまっていたのです。
その“沈滞”から脱け出すために、クーベルタンは「教育こそ、そのキーになる」と考えたからです。

「教育」の分野へ進むことを志したクーベルタンは、20歳のときに英国のパブリック・スクール(公立学校)を視察するため、渡英します。大の愛国者であるクーベルタンにとって、英国は好きな国ではありませんでした。

しかし、英国のイートン校、ハーロン校などパブリック・スクールを見たクーベルタンはその考えを180度転換しています。
それらの学校で、スポーツが青少年の教育に重要な役割を果たしていることを見て、学生たちのスポーツが、肉体的・精神的な「強さ」を培うための大きな原動力になっていることを知ったのです。

クーベルタンはそのときのことをこう記しています。
「イギリスに比べ、フランスでは知識の詰め込み教育に追われ、生き辞書にされて、知性ばかりを太らせて、体力と精神的エネルギーは奪われている」
クーベルタンはそこに大きな問題意識を見つけます。当時、勢いを増していたイギリスに比べ、フランスは戦争に敗れ、自信を失い、国際的にも地位が低下していました。
クーベルタンは「スポーツこそが規律を重んじ、心身ともにバランスのとれた若者を作る」と考え、フランスの教育界にスポーツ活動を導入することに奔走します。

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最初は冷ややかな反応に迎えられた
近代オリンピックの復興

「フランスの古い教育体制を改革する」―、この思いを実現するための活動を始めたクーベルタンは、米国や欧州の教育現場を精力的に見て回ります。スポーツクラブ創設への働きかけ、運動場の整備、運動競技会の開催などに動き回ります。

そして、周囲の国との交流を深めていく中で、クーベルタンは「古代オリンピックの果たしていた平和実現への役割」を知ります。古代オリンピアの期間中には、各国が戦争を中断していたことを知ったからです。
「古代オリンピックを現代に復活させることが、スポーツによる国際交流を生み、世界平和に繋がっていく」
1892年、クーベルタンはソルボンヌ大学の講演で、『ルネッサンス・オリンピック』を提唱するのです。

しかし、このクーベルタンの近代オリンピック復興の呼びかけに、周囲の目は冷ややかでした。
無理ありません。人々は、オリンピックそのものを見たことも、聞いたこともありませんし、理解しようがなかったのです。

しかし、クーベルタンの粘りは、ここから発揮されます。
翌年1893年の米国・シカゴの万国博で、教育会議に出席したクーベルタンはオリンピックの理念を宣伝します。
その翌年1894年には、パリで万国博が開催され、クーベルタンはその高揚したイベント気分に便乗するかたちで、オリンピックの効果を説き、国際的な賛同を得るに至ります。
パリのソルボンヌ大学の講演で、20カ国47団79名の公式使節が参加し、近代オリンピック大会の復興が正式に宣言されたのです。

・1896年をもって近代オリンピアードの第1年とすること、
・古代の伝統に従い大会は4年ごとに開催すること、
・競技種目は近代スポーツ競技に限ること、
・オリンピック大会開催に関する最高権威として国際オリンピック委員会(IOC)を設立すること、

が決定されました。

しかし、クーベルタンの希望がすべて通ったわけではありません。
クーベルタンは当初、近代オリンピック第1回目の開催は、「1900年に、フランス・パリで」という希望を持っていました。
しかし、各国の人々の意見の大勢は「6年後では遠すぎる。2年後に開催にこぎつけよう」、「オリンピックの復活はギリシャから、というのがふさわしい」というものでした。

第1回の近代オリンピック開催のためにクーベルタンは“事務総長”として活躍します。
オリンピック復興の提唱者であるクーベルタンがIOC会長に就任するのが普通のかたちだったのですが、オリンピック開催を決定する際に、IOC会長は開催国の関係者がその任に就くと決めていたため、初代のIOC会長にはギリシャ人財界人のディミトリオス・ヴィケラスが就任したのです。

しかし、オリンピック開催にたどり着くまでは、まだ難問が控えていました。
ギリシャは、国内政治の不安定、政党間の対立、政党と王室との不仲、緊縮経済に対する民衆の不満などが強まっており、オリンピック開催への資金ねん出には多くの課題が残っていました。

労働者ストライキが勃発し、治安が慢性的に不安定で、オリンピックの認知度不足から、開催は一時暗礁に乗り上げました。
ギリシャのトリコーペス首相から「アテネで開催するのは非常に厳しい状態だ」という手紙が送られてきたのです。

クーベルタンは、まずギリシャ国王・ゲオルギウス1世の全面的な協力をとり付け、ギリシャのスポーツ団体である“ザペイオン協会”との交渉で、開催のための費用面へ協力を得ることに成功します。
また、財政面で、エジプト・アレキサンドリアに住む富豪アベロフ氏から巨額の寄付を得ることに成功したのです。

「相手を打ち負かすことではなく、
公正に奮闘したかが重要である」と説く

第1回近代オリンピックは、1896年、陸上競技、水泳、体操、レスリング、射撃、自転車、テニスの8競技42種目、13カ国から295名の参加によって、無事開催されたのです。
現在の競技とやや違うのは、陸上ではトラックを右回りで回っていたこと、水泳はプールではなく海で、体操は屋外で、行われたことです。

その後、クーベルタンは1897年から1916年まで、自ら第2代IOC会長を務めます。
ただ、「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することに意義がある」という言葉がありますが、実はこれはクーベルタンの言葉ではありません。
1908年のロンドン大会(第5回)で、英国と米国のチームが対立し、険悪なムードが広がっていた中、日曜礼拝に来た両チームの選手たちに対し、セントポール大寺院のペンシルヴァニア司教が戒めの意味を込めて発した言葉です。
その言葉に感激したクーベルタンが、晩さん会などで引用して使ったために広がっていったのです。

クーベルタンはこう言っています。
「人生で重要なことは、勝つことではなく、戦うこと。相手を打ち負かしたことではなく、いかによく戦ったかが最も大切なのである。人生は闘うがゆえに美しい」

74歳で死去したクーベルタンの心臓は、オリンピックゆかりの地であるギリシャ・オリンピアに埋葬されています。
そして、彼の功績を称え、IOCの公用語はフランス語と英語とされ、すべての会議が、この2ヶ国語で運営されています。

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