「でこぼこの道には、自分の足がいちばん頼りになる」              伊能忠敬

伊能 忠敬

いのう ただたか

(1945年1月11日生まれ)

初の日本地図作成へ、
50歳からの執念が実る

伊能忠敬は1745年(貞享7年)1月に、上総国山辺郡(現在の千葉県山武郡あたり)に生まれています。
はじめて実測による日本地図を作成した人として知られ、井上ひさし氏が「4千万歩の男」として小説に描いたように、延べ17年間、10回に及ぶ測量を行ない、詳細な「大日本與地全図」を作成しています。

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彼の生涯をたどっていくと、彼が日本地図の作成に取り掛かったのは50歳になってから、ということ。しかも、その世紀の大プロジェクトは当時の江戸幕府公認のものではなく、自費で始められたこと、という点に驚かされます。

伊能忠敬は、千葉・九十九里海岸に近いイワシ漁の網元の家に生まれ、地元の名主としての仕事を行っていましたが、50歳の時に自ら進んで「隠居願い」を出し、暦学・天文学の道に進むことを決意しています。
江戸に上り、洋学の師・高橋至時(よしとき)に入門、このとき忠敬は50歳、至時は31歳。忠敬は師よりも19歳も年上だったのです。

異常なまでの熱心さで、天体観測、暦学理論を学んだ忠敬は、自費で観測機械を購入するだけでは飽き足らず、とうとう一行6人で蝦夷地測量の旅に出ることを決意するのです。忠敬55歳のときです。

そのころ、帝政ロシアの使者が根室に入港するなど、江戸幕府は北への関心を高めていたにもかかわらず、幕府には忠敬らへの信頼はなく、忠敬はやむなく自費での測量となったのです。

「刀では磁石が狂う」
実測地図作成にささげた23年間

6ヵ月かけた蝦夷地の測量を終えて、江戸に戻った忠敬はすぐさま地図作成に取りかかります。
出来上がった「奥州街道・蝦夷地大図21葉」の精密さは人々の驚嘆を呼び、忠敬は幕府から「苗字帯刀」を許されます。
もっとも、忠敬は「鉄製の刀では磁石が狂う」ということから、常に竹光を差していたそうです。

忠敬の地図作りは、その後もやむことなく続けられます。
途中、師から「量程車」という距離を測る機械も送られてきますが、「でこぼこの道には、自分の足がいちばん頼りになる」と、実測の基本を崩そうとしません。

忠敬は実測という地理な測量に加え、天体観測による緯度決定というデータを加えることによる、きわめて科学的な地図作成を行っていったのです。

その後、69歳になるまで、計8回、日本全土に及ぶ測量を忠敬は行なっています。弟子に引き継がれた実測2回まで含めると、50歳から死ぬまでの延べ23年間を日本地図作成にささげ、『大日本沿海與地全図』を作成したのです。

この地図の正本は1873年の皇居火災で焼失してしまったのですが、2001年に米国議会図書館で207枚もの写本が発見されています。