「習得すべきは『ダメだ』という言葉に打ち勝つことだ」

ジェームス・クック

James Cook

(1728年10月27日生まれ)

世界の地理を塗り替えたクック船長。その初めは「石炭運搬船」から。 

ハワイ、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリア・・・、これらの国や島々が世界地図のなかにその正確な位置を記録されるようになったのは、冒険心と探究心をもったある一人の男の貢献によるものです。

通称「キャプテン・クック(クック船長)」と呼ばれる、イギリス海軍士官・ジェームス・クックがその人です。

1728年、クックはイギリスのノースヨークシャー州のスコットランド人夫婦の家に生まれています。

農家の家に生まれたクックでしたが、当時のイギリスは、産業革命が進んでいる中で、石炭の需要はどんどん増えていきます。17歳のときに、北西部の小さな港町ホイットビーの船会社ウォーカー社に雇われ、「石炭運搬船」の船員として働き始めます。

クックは忙しい中で、ロンドンへ石炭を運ぶ仕事を続け、船の操舵技術に必要な航海術、代数学、天文学、三角測量法を身体にしみ込ませます。

27歳のときにイギリス海軍に自ら志願して入隊。それまでに磨いていた巧みな操舵技術を求められ、すぐに一等航海士に昇進します。

当時の欧州は、互いに勢力拡大を図る動きが激しく、一触即発の状態が続いていました。イギリス・プロイセン対フランス・オーストリアの対立はいよいよ「7年戦争」を引き起こします。

英国海軍のケベック攻撃作戦に参加したクックは、航海の知識、船の操船などで目覚ましい戦績を挙げます。とくに、綿密な地理調査によって作られた地図は、当時の「7年戦争」でイギリスの勝利に大きな貢献をすることになったのです。

 

「エンデバー号」で第一次航海に出発。「カンガルー」との出会い

そのことは、イギリス王立協会の大きな注目を集めることになります。

38歳のときにそのイギリス王立協会は、クックを科学調査隊を指揮する船長として招き、南太平洋の地理調査と天体観測を依頼します。

大航海時代から「南方大陸があるのでは?」と考えられていたのですが、誰もそれを実証することができません。

その役回りを、クック船長に託したのです。

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クック船長の率いる「エンデバー号」は1769年にタヒチに到達し、その地で金星の観測を行う観測所を建設。

次に太平洋の地理に詳しいタヒチ人の助けを借りて、ニュージーランドに向かいます。そこは27年前にオランダ人探検家アベル・タスマンが発見した地ですが、現地の人であるマオリ族は、攻撃を得意とする民族で、すぐにはクック船長の一行を受け入れません。

約6ヵ月(10/9?4/1)かけてニュージーランド周辺を探検航海して測量、ニュージーランド島を南北に分けている海峡(後に「クック海峡」と命名される)を発見します。その一方で、クック船長は先住民であるマオリ族と戦うばかりでなく、船内に合ったトライフル・ケーキを渡したり、現地からサツマイモを購入したりし、欧州人としては二人目のニュージーランド上陸を果たします。

さらに、さらにオーストラリア東海岸へ到達した際には、現地の動物の多様性に驚き、特にこれまで目にしたことのない有袋類の動物と出会い、これを「カンガルー」と記しています。

 

世界地図を塗り替えていく旅。 自然史・博物学などへの大きな影響を与える発見

クック船長は高度な測量技術と優秀な地図作成能力をもち、船長として悪条件下でも部下を統率できるリーダーシップ、時には自らの判断で調査範囲を拡大していく大胆さを持った人でした。

クック船長の第一次航海の報告にもかかわらず、欧州では、依然として「南方大陸はないのでは?」「いや、南方大陸(南極)」はある」といった課題への疑問は解けないまま残っていました。

1772年7月13日、クック船長44歳のとき(「アドヴェンチャ―号」「レゾリュ―ション号)は第2回目の調査航海としてプリマス港を出発しています。

南極圏に接近しましたが、氷に阻まれて、上陸はできません。その代り、クック船長は南氷洋海域を広く一周し、綿密な調査を行い、イースター島、バヌアツ、ニューカレドニアニ島を発見しています。

そして南方大陸に関し、当時、欧州の人たちが描いていた「黄金があふれ、人の住める南方大陸(南極)」ではないことを明らかにしたのです。

クック船長の航海は世界地図を次々と塗り替えていく発見の旅でもありました。

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自らの経験と観察を通じて「壊血病」の予防法を実践

第2回目の航海から戻り、海軍大佐にまで昇進していたクック船長は、海軍病院の院長に就任しましたが、航海中に発見したある病気に関する報告を発表しています。

従来の航海では、航海中に船員たちの多くが「壊血病」によって命を落としていました。

「壊血病」というのはビタミンCの欠乏によっておこる病気で、まず歯ぐきが腫れ、全身がむくんでだるくなり、苦悶のうちに死に至る病です。従来の他の航海では2000人いた船員の半数が「壊血病」で命を落としているケースも出ていたほどです。

オレンジやレモンの予防効果があることはわかっていましたが、長期航海では保存法がありません。そこで、クック船長は、第二次航海の際に、酢漬けキャベツ(ザワークラウト)を大量に積み込み、船員たちに食べることを義務付けました。最初は、懐疑的だった船員も、その効果に目を見張り、ザワークラウトを受け入れていきました。

もちろん、「壊血病」とビタミンCの因果関係が発見されたのは、それから150年後のことで、ザワークラウトの効果が科学的に実証されえたのもずっと後になってからです。クック船長は、細かい観察や経験から、自然とその解決法にたどり着いていたのです。

クイック船長はこう言っています。

「誰かに『ダメだ』と言われても、それは最初の一歩に過ぎない。習得しなければならないのは、その『ダメだ』という言葉に打ち勝つことだ」

 

「ハワイ諸島」を発見。その後に待っていたあっけない死

クック船長の海と航海への夢はやむことがなく、第二次航海から戻った翌年、48歳の時に、クック船長は、今度は「北西航路」発見をめざし、第三次航海へ出発します。

出発から1年半後、トンガ島への寄港、クリスマス島の発見の後、クック船長は「ハワイ諸島」を発見します。

さら北上し、ベーリング海峡、北氷洋の探検航海後に、冬の訪れで越冬のために南方のハワイへ戻ることにしたクック船長の身に意外な結末が待っていました。

レゾリューション号のマストの破損修理のためにハワイ島西岸に上陸したクック船長一行でしたが、船の修理中に、現地の人との些細なトラブルが発生してしまいます。文化が違い、言葉も通じ合えないが現地人住民と間に戦闘になり、1779年 2月14日にクック船長と護衛の海兵隊4人が全員戦死しました。

世界を旅し、様々な発見と自然科学への貢献を果たしてきたクック船長は51才で異郷の地にて非業の死を遂げました。

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クック船長の銅像は、イギリスにあった1755年建造の家を、1934年の豪州メルボルン100年祭を記念してフィッツロイ庭園内へ移築した「キヤプテン・クックの生家」をはじめ、ニュージーランドのクライストチャーチに立っています。また、オーストラリアのメリーランド州にはクック船長の名を冠した「ジェームス・クック大学」があります。

 

キャプテン・クック協会
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