「成らぬは人の為さぬなりけり」

上杉 鷹山

うえすぎ・ようざん

(1751年7月20日生まれ)

ケネディも「理想像」と仰いだ改革のリーダーシップ  

 

1961(昭和36)年、アメリカ合衆国第35代大統領に就任したジョン・F・ケネディは、記者会見の席上で、日本人記者から「日本人で尊敬する人はいますか」と聞かれ、「いますよ。それは上杉鷹山です」と答えています。

ケネディは若い頃に内村鑑三が英文で書いた『代表的日本人(Representative Men of Japan)』を読み、上杉鷹山を知り、そこにリーダーとしての理想像を見たのだ、と言われています。

 

上杉鷹山は宝暦元年(1751年)7月に、日向高鍋藩主・秋月種美の二男として江戸屋敷に生まれています。高鍋藩は、現在の宮崎県高鍋の地を治めていた2万7000石の小藩でしたが、藩主の母(鷹山の祖母)が、山形県南部を統治下に置く米沢藩の藩主・上杉重定の従姉妹であったことから、10歳の時に祖母の発案により米沢藩主・上杉重定の養子となっているのです。

 

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17歳で藩政の大改革に向かう。自らを律し、倹約の手本を示す

鷹山は17歳のときに出羽国米沢藩の第9代藩主になります。当時の米沢藩は、徳川幕府から家禄を大幅に減らされた影響もあって、困窮の極みに沈んでいました。

なにしろ米沢藩の収入は当時3万数千両でしかありませんでしたが、江戸や地方の豪商からの借金は、20万両(現在の金額にし約100億円)以上に及んでいたのです。

いわば、「財政破綻」の状況で、逃げ出す領民は多く、武士たちも貧困のあまり忠義心が薄れ、領内は荒廃していました。

 

受け次ぎて 国の司(つかさ)の身となれば 忘るまじきは民の父母

 

これは、藩主になった鷹山が、その決意を歌に表したものです。

「民の父母の心を大切にすること」

「学問・武術を怠らないこと」

「質素・倹約を旨とすること」

「賞罰を正しく行うこと」

決意を胸に、藩主になってわずか5カ月後、17歳の鷹山はさっそく12か条からなる『大倹約令』を出します。

祝賀行事、神事などは行う場合は極めて質素に行い、家臣は祝宴、贈答の禁止など、具体的な案を提示します。体面を重んじる重臣たちの反対にもめげず、倹約を実行し、鷹山は帳簿を作成し、1年間にわたって、支出の内訳、借金の総額を調べ、さらに検地を実施して収入額を正確に把握しました。それまで米沢藩では、帳簿と呼べるような代物はつくられてきませんでした。そこで、鷹山は、財政の実態を「見える化」し、家臣たちへ意識改革を促したのです。

自らも、江戸藩邸における経費を1500両から209両へ、「7分の1」にカットし、日常の食事は「一汁一菜」、服は絹をやめて服は木綿に、50人いた奥女中は9人に減らしました。自らの生活も殿様とは程遠い「質素」な生活とし、倹約の率先垂範となったのです。

農業改革で財政の戦力を生み出し、「製品化」で領内に産業を興す

ただ、鷹山が藩政改革のために打ち出した策は「出ずるを制す」ことだけではありませんでした。収入拡大のための農業改革と殖産興業です。

 米沢藩の特産物は、寒冷地に適した漆(うるし)やイラクサ科に属する多年生草木である青苧(あおそ)、楮(こうぞ)、桑などです。鷹山はこれらの植物の栽培を奨励し、「各100万本植栽計画」を打ち出します。

というのも、青苧(あおそ)は織物の糸になり、漆(うるし)の実からはロウが採れます。いずれも江戸や大坂へ出荷することができれば、藩の収入を生み出す大きな戦力になるからです。

植え立ての目標は、農家一戸には30本、寺院境内には10本、侍屋敷と町屋敷には各15本・・・といった具合です。城内に「樹芸役場」を設置して、生育の指導を行い、成長した草や木の実は藩が公定値段で引き取る仕組みも作ったのです。

従来はこれらの植物は他の藩に原料として売却されていたものでしたが、鷹山の藩財政再建計画の非凡なところは、これらの資源をもとに最終製品を作る産業を藩内に興した点でした。

青苧を原料として織物工業を興し「米沢織り」をつくり、漆の実からはロウや塗料を作り、楮から紙を漉き、桑で養蚕を行い生糸で絹織物に仕立てました。

天明の大飢饉の際に餓死者ゼロで乗り切った背景

鷹山の基本姿勢は「自ら助くる(自助)、近隣が互いに助け合う(互助)、藩政府が手を貸す(扶助)」の『三助』を組み合わせていくことでした。

自ら城内で植樹を行い、武士たちにもプライドを捨て、自宅の庭で作物を育てることを命じました。

貧しい村の中で、働けず肩身の狭い思いをしていた老人たちのためには、米沢の小さな河川・沼を生かした鯉の養殖をスタートさせ、美しい錦鯉は江戸で人気商品にもなりました。

とりわけ、鷹山の「食糧備蓄作戦」は、人々の命を救う大きなカギとなりました。

当時の東北地方では、長雨や旱ばつによって“飢饉”が頻発していました。もともと、米の備蓄を行っていた米沢藩でしたが、藩財政のひっ迫によって備蓄を使い果たしてしまっていましたが、鷹山は、藩の行政改革と同時に「備蓄米」の増強に再び力を注ぎ、藩主になってから7年目の1774年に、『備籾倉庫』3棟を建設、これを皮切りに次々と食糧備蓄の倉庫を藩内に設置していったのです。

天明3年(1783年)から、奥羽地方は毎年冷害に見舞われ、長雨、冷夏で作物の出来は大凶作が続きました。いわゆる『天明の大飢饉』です。

津軽藩では餓死者8万人以上、南部藩では同6万4000人、仙台藩で同4万人、と米沢藩の近隣諸藩では多くの死者を出してしまいます。

しかし、この時期、米沢藩だけはなんとか死者ゼロで乗り切っています。貧しい家臣や農民に対しては、備蓄米の放出などの救米措置が実行されるなど、藩の救済処置が素早く、しかも領内の隅々まで行われたからでした。

『かてもの』を刊行し、農民に配布。飢饉への備えを創る

この経験を生かし、米沢藩では、飢饉による凶作から起こる領民の飢えを救う工夫として、米・麦以外の草木などを食糧にすることで、主食の代わりとして食べられるものを広く研究し、その食べ方、貯蔵方法などが考えられたのでした。

鷹山は、医師である矢尾板栄雪・江口元沢・水野道益らに食料となる草木・果実の研究を頼み、その結果、1802年に約80種の草木について、その食べ方を具体的に述べた『かてもの(糧物)』という冊子がまとめられ、1575冊を農民・町民に配布したのです。

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「かてもの」という言葉は「主食にまぜて炊くもの」を意味しており、主食を増量して空腹を癒すことが目的で、食糧不足の際に代わりに食べられる食物のことを指しています。”救荒食(きゅうこうしょく)と呼ぶこともでき、特に植物は救荒植物と言います。

その内容は主食の糧になる植物82種をあげて、その食べ方を詳しく説明し、また味噌の各種の製造法、蒔いておくと良いもの、数年置いても食べられる干物、そして最後に魚・鳥・獣の肉についても述べられています。

この『かてもの』書はその後の大飢饉に大いに役立ち、米沢地方のみならず、他県にまで広く食糧事情を救うために役立ちました。

この教えの多くは郷土料理として今に伝えられ、米沢地方では生活に脈々と息づいています。

上杉鷹山の句として知られているものに

 

為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり

 

があります。

上杉鷹山は人間味あふれる努力の人として、改革のリーダーとして大きな手本を示した人だったと言えるでしょう。

資料:「複眼で読む上杉鷹山公秘話」:http://e-yone.jp/backnumber/yozan/

 

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