『伝説の相場師』、勝ちへつなげる思考パターン(1)

本間宗久(ほんま・そうきゅう)
酒田が生んだ“米相場の天才” 

本間宗久は享保二年(1717年)、出羽国庄内(現在の山形県酒田)の本間家初代、本間久四郎原光の五男二女の五男として生まれています。

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本間宗久は「コメ相場の天才」として〝酒田の天狗”と呼ばれた。

時代の背景は、八代将軍・吉宗による「享保の改革」が断行され、不県気の波に突っ込んでいく流れの中にありました。

 14歳で米相場師への道を目指すことを決め
20年間の研究を実戦で生かす

 本間宗久が生まれた出羽国庄内は「出羽米(いまの庄内米)」の大集積地で、大阪・堂島、江戸・蔵前と並んで、米会所(米の取引所) が開設されていました。

 本間宗久は14歳の時に「ああ、吾が従事すべきはこれ米商(米の相場師)なるかな」 と書いています。つまり、「将来の進路は“米相場師”」と決めていたのです。

 以来、宗久は米相場の動きを徹底的に研究していきます。

34歳のとき、宗久は本間家の財政切り盛りを任せられることになり、いよいよ実戦の場で宗久の腕と20年の研究成果が試されることになったのです。

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江戸時代、コメの大集積地として知られた酒田の地

 洒田の米会所で米の先物相場に進出した宗久は連勝街道を突っ走ったといいます。

 本間家の投資資金として託された2000 両を、その後の4年間で16倍の31000 両に増やすことに成功したのです。

 当時、堂島・蔵前・酒田といった米会所には名うての相場師が集まっていましたが、それらを相手に宗久は勝ちを収めたのです。

 宗久の戦法は理詰めで、当時の米相場ではその知識・オ能は群を抜いていた存在で、「出羽の天狗」と呼ばれたほどでした。

 「罫線」を編み出した最初のテクニカル・アナリスト
堂島で連戦連勝を果たす

宗久は38歳の時に、当時最大の米先物市場である大阪・堂島に乗り出します。

年々の米の作柄状況を記録し、自然・気象を研究、作柄のよし悪しを割り出し、大胆不敵、進退自在の戦法で、宗久が堂島の相場を席巻するまでに時間はかかりませんでした。

 宗久の投資のベースになったのは、自身が世界で先駆けて開発した「罫線」でしょう。

相場の動きを記録する手法として「酒田足」と呼ばれる、現在のローソク足の原型に近い日脚表を開発し、その分析手法として「酒田五法」を組み出しています。

いわば、テクニカル・アナリストの草分け的な存在です。

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「酒田五法」は、相場テクニカル分析の草分け的な存在となった。

酒田から相場の動きを読む
情報戦略に長けた天才相場師

本間宗久は、庄内・酒田にいるときでも、大阪・堂島の米相場の動き(上げ・下げ)を30分ほど後にはつかんでいた、と言われています。

インターネットはおろか、電話も電報さえもなかった時代に、いったい、どんな方法を使って情報を得ていたのでしょうか?

 大阪の堂島から、酒田まで、地形の高い山々の頂に人を配し、人の“手旗信号”を何人もでつなぎながら、その動きの情報を伝達していったのです。

人の視界の及ぶ範囲内に人を配置したのですから、いったい何人の人がかかわったのでしょうか。

大阪から酒田へ相場の動きが伝わり、次は酒田から大阪・堂島へ「売り・買い」の指示が送られたのです。

情報を制する者は相場を制す。まさに宗久は、相場師としての重要ポイントを的確に押さえていったと言えるでしょう。

 大阪で戦果を上げた宗久は、次に江戸へ
「江戸の蔵前 雨が降る」と読まれる

 浅草・蔵前をはじめ、5 ヵ所の米取引所が開かれていた江戸でも、宗久は「一人勝ち」とも言える目鎚しい戦績紙を上げていきます。

 酒田照る照る 堂島暴る 江戸の蔵前雨が降る

 と俗謡に謳われたほどでした。

相場の極意は投資家心理を読むこと
『三位傳(さんみでん)』を家伝の書として残す

 本間宗久が後々の相場に語り維がれることになったのは、その投狩理論を後年の28年間を費やして『三位傳(さんみでん)』としてまとめていたことでしょう。

 この『三位傳』は、宗久が緒戦の米相場で大きく失敗し、ある日禅寺において悟った、相場に対する秘伝ともいえるものです。

 「三位」とは「旗」「風」「心」の三つと定義されているようです。

 「旗」は相場の表層、つまり値動きや相場自体の状況を言い、「風」は相場に影響を与えるもの、値動きの原因・要因となるものを「吹く風・風向き」に例えています。

「心」は市場心理、人気やブーム、過熱感などの市場のセンチメントと相場師自体の迷い・不安、奢りなどの諸々の心の動きを含めた人間模様のことを指しています。

 それを相場に対応させれば、
一つ、相場を仕掛けたら、
二つ、相場が上か下かの勢いを感じ取り、
三つ、相場が十分伸び切ったところを見、
四つ、相場が方向を転換するところを見分ける

 というような、相場の位置を心がけるというものです。

宗久が自然の風によって動く旗を見て、これこそ相場本来の動きであると悟ったものです。

 「商い急ぐべからずとは天井値段、底値段を見ることなり」

「つき出し大切とは考えの外のこと出るものなればなり」

 と焦りは禁物、自分なりに天井、底を見極めることが大切。相場では考えてもいなかったことが起こる、と教えています。これが「三位の傳」なのです。

 「前年売り方にて利巡の人は、とかく売り気離れ難く、売り気に向くものなり」というように、一度売りで儲けたことがある人は、「売り」戦法にこだわってしまうもの、と言っており、これは「もってのほか、よろしからず」
なのです。

 「人も我も同じ見込みの節、海中へ飛び入る心持ちのこと」とも言っています。

悲観材料が続出し、誰もが弱気な判断をしてしまうとき、そのときこそ海の中へ飛び込む勇気があれば底値をしっかりと買うことができる、と教えているのです。

 「人の商いをうらやましく思うべからず。ただし、うらやましく思うときはそのときの相場の位をわきまえず、ただ、うらやましく思う心ばかりにてする故、手違いになるなり」

 うらやましく思い、商いすることを“けなり商い”といい、厳に戒めています。
天才といえども、投貸家が最後に闘わなければいけないのは「自分の心理」ということなのでしょう。

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